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 四十九歳のおばさんと若き燕のお話し と言えば、わかった風な 聴いたような話ですが、そこはフランス風なエレゴンス風の趣向が凝らされていて 唯のおばさんではなく、ベル-エポック期の高級娼婦と これまた若き燕もまた成り上がりの単なるアラン-ドロンのような美青年ではなく、主人公レアとはかっての同僚?の関係になる同じ高級娼婦を母に持つ 素人とは言えない世界で育った ませたところのある 可愛げのない 妙に老成した それでいて しこたまに資産を溜め込んで年金生活も、遣ろうと思えば可能なーー子供のような無邪気さと老成が奇妙に混淆した リアリズム志向の青年と来ている。半ば色街のような育った環境や職業柄?と言えば単純なのだが、遠に盛りを過ぎた貴族社会の名残と新しい時代に息吹がぶつかり鬩ぎ合い穂波を時に逆立てるベル-エポック期のフランス社会の稀有な一回性が この青年にミステリアルな魅力を与えている。封建的古典主義から近世 近代 現代への移り行きを 模倣しつつも違った形でしか受け入れる事が出来なかった近代社会の日本では、決して御目に掛れない人間類型だとは一応言えるでしょう。シドニー🟰ガブリエル-コレットの感性 或いは日本人には分かり難いかも知れません。


 他方 主人公のレアにわからなかったのは、恋とは、一旦失われたのちに回想と残照の逆光の中で照り輝くもの 日常の感性では手の届かない存在であるが故の恋である と言う事だろう。恋とは郷愁なのである。当世風の若き燕が当然の事のように 経済力や生活力の釣り合いから資産家の娘との縁談を選び 古典主義的?な結婚と言う事態を迎えても、いささかの動揺も気色に見せないのは、そもそも高級娼婦とは恋愛のプロフェッショナルであると言う妙な矜持による。高級娼婦であるレアにとって 恋とは今まで通過儀礼の如く、或いはオペラハウスの走馬灯の如く 壇上の回舞台をメリーゴーランドのように華やかに美しく 且つまた後腐れなく回転し踊り明かして過ぎ去るすべきものであったに過ぎない。実際に 二十四歳も歳の離れた青年シェリとのアヴァンチュールに於いてもまた そうしたものの一例であるに過ぎなかった筈であった。或いは或いはベルエピック期のパリ女のエレガンスとエスプリゆえに そう思い込もうとしていた。

 ところが今回は事情が違っていた。一旦思い諦めたつもりでいたシェリの再訪を境に 追憶の形で愛が再現する。そうすると過去の思い出のいちいちまでが永遠の相に於いて現れてくる。職業柄 恋愛のプロフェッショナルを気取るのも良いのだが、そもそも恋愛にプロフェッショナルなどあり得ない 愛には熟練とか熟達とか習熟と言う概念は存在せず無意味である事を彼女はいまにして思い知る。出会うたび毎に、生まれるたび毎に少年の萌え出ずる慕情のように新鮮なのが恋なのであるから。恋愛に経験は不要である。

 翻ってみるに、若き燕 美青年シェリなども考えてみれば実につまらない人間 つまらない人格ですね。或いは、そとみの外見は兎も角、内面は凡庸であればこそ、人は恋すると言う行為も或いは可能だったのかも知れない。つまらない人間だから恋をする つまらない人格だから愛の神秘性に囚われた と言うことだってあるのかも知れない。なぜなら凡庸さと言う鋳型に嵌った人間類型は精神の内容を欠き 心の襞 こころの内臓の凹凸を指先でなぞるような繊細さやデリカシーの文法がなく、凡そ人間性の脈絡も文脈も欠いたところで 対象を掴め切れないが故に 他者を神秘性の後光の元に立たせ 或いは容易に内面に踏み込み読み込むことが出来ず 隔たれ突き放された感性がーーなぜなら内面をそもそも欠いた対象を相手にしているのだからーー却って他者の世界は手の届かないミステリアルな世界と化すのである。かのトーマスマンの『トニオ-グレーゲル』のハンスとインゲボルグがそうであったように!この点は逆に言うと 類似した性格のカップルの間には恋愛が生じ難いと言うのも 案外 こうして理由によるのかも知れない。

 それでも 若き燕をパリはヌイイと言う名のブーローニュに隣接する高級住宅街の邸宅 その家庭に突き戻す 最後の別れの場面は十分に美しい。恋とはこう言う形をしていたのかと改めて思う思いと その後先を知らない計算をど忘れした初心な乙女のように、瞬間 夢見微睡みながら 自分自身の眼とシェリの眼と言う双方の複眼的両面の視覚から逆落としのように 老いの真実と現実を思い知ることになる 最後の場面 の哀切さ!今日を境に今後 自分自身が辿る事になるであろう瞼の裏に描かれた己の近未来の自画像は、いままでにも本作の彼方此方に既に 脇役陣の顔ぶれとコレットのかも優れた観察力と描写に際どく 悪どいまでに描き尽くされている。


 愛とは求めるものであって、所有するものではないのである。


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 以上は 作者コレットが読者にこう読んで欲しいと言う読み方に即した読み方に過ぎない。

 そもそも愛を語ろうと言うなら 恋とは対象に依存しないと言う冷徹な境地 境位に達するためには、多少 レアには知性が足らなかったであろうし、四十九歳をひと人生を手繰り終えたと言う作者コレットの感覚 感性もまた 今日では違和感が残るであろう。現代では、四十九歳は十分若いのである。或いは、七十代でも⁉️

 更に 肉体的年齢と相関する固定化されたベルエポック期のアール・ヌーヴォー風の恋愛観もまた美の空間的な規定に過ぎず、時間の相の元に置かれたプルースト風の愛の多様な展開もまた 彼女にも また作者のコレットにしても無縁であったろう。

 四十九歳と言う年輪 何もため息を吐くような事はないのである。