私のtraining如きをコペルニクス的転回などと表現して表現センスを疑われたそうですが、実はパラダイム変換の如きものがありました。


 人間の身体には完全性が宿っていて、人は努力すれば前進こそすれ 後退する事はない筈だ と言う人生観の如きがありました。


 しかし鍛こそすれ前進 進歩 改善効果が見られないと言う現象は後期高齢期域の中で、皮肉にも 下りエレベーターを逆上がりすると言う 皮肉なイメージを植え付けてしまいました。

 暫時的に低下する老齢化曲線の右下がり傾向を見ながら、後期高齢期の壁はやはり破れないものか?とため息やら感慨に耽る時期が続きました。


 ある療法士の方の指先タッチによる問診では 私の体は硬く、使い過ぎによる硬さであるに過ぎない と言う事でした。弾力ある筋肉の発現による硬さではなかったのですね。

 加えて 身体の部位ごとのバランスが悪い とも言われました。腹筋と背筋の関係とか 太腿部の前後と左右のバランス 特に左右のバランスが良くない と言う事でした。


 そう言えば walking にしてもtrekkingにしても、基本は前進する運動形態ですから 身体の左右バランス均衡の能力が、置いてけぼりにされていたようなのですね。

 筋肉のバランスが悪ければ怪我も起こしやすいでしょうし、固化した筋肉では血流の流れも良くはないでしょうし、これで 使い過ぎ 歩き過ぎが良くないと言う事に得心がいきました。昨今の私の紆余曲折やジリ貧状態に客観的な説明が与えられたような気がしました。


 一昨年などは気分が向けば一日50,000歩ほど歩いた日もありましたし、trekkingでは月に登り降りした山の標高差が6000メートルほどの期間もありました。無駄だったと言う思いはありませんが、効果には繋がりませんでした。


 個人に与えられた身体能力の差は如何し難いものがあって、全てがそうだ!と言う意味ではなくて、私の場合は、自然のままに生きると言う理想が、ことBODY  trainingに関しては outdoor志向を目さした私の自然主義が 身体の自然をある局面域を境に裏切って行く事になったようです。


 自ずからなる自然のままに自然態として能力が生かされる、その極限態として天才という概念がありますが、多くの凡人はそうではありませんね。凡人どころか天才の真逆の反対概念の極位に立たされて来た私にとっては 身体が持つ神秘性についても様々に多様な応答の仕方が強いられているような気がするのです。


 話は飛躍して イギリスを規範とする近世近代のヨーロッパにはアダム-スミス以来の自由主義と資本主義の概念がありました。人間の諸行為は切磋琢磨の努力主義の中から放って於いても良き結果に結びつくものだと、見えざる神の恩手によって!ーーこの考えの前提には人は良きものであると言う 西欧社会の伝統に基づく根深い性善説への信仰がありました。

 かかる理性理想主義の考え方が一巡して20世紀後半から21世紀を迎える頃から人間の性善説に基づくパラダイムが怪しくなり始めました。昨今のロシアによるウクライナ侵攻 パレスチナガザ地区における無差別な近代兵器による破壊と殺戮 中国に於ける統制の為の統制志向など、小学生レベルの知能で考えてもいっけん不合理 不条理としか考えられないものが平然と 公然と 大文字のパフォーマンスを伴う政治社会政策として施行されているようなのです。憂うべき事と言うよりもカルトじみたグロテスクな政治風景さへ感じます。


 人は本源的に善なる存在であり完全なるべきものを志向するものだと言う考え方は本当のことなのだろうか。むしろ人間には相反するタナトスーージグムンド-フロイトの死への傾斜ーーつまり無機的物質から単細胞生命を経て多様に展開するエロスの円環を逆向きに回そうとする虚無への志向 無機物への憧憬があるのではないのか?或いはドイツの社会学者であるマックス-ウェーバーのように悲観的にものを考えなくても、人は己を拘束し自らを囚われものとしての平安を好む嗜虐的傾向 或いは奴隷性 隷属化の趣向があるのではないのか と思わせるのです。


 私は自然主義という言葉を 自然環境の中に理想を見ると言う風にも使って来ましたし、人間の自然 自然な振る舞い 自然なあり方 と言う風にも使ってきました。

 自然主義の概念の根本には、人は善なる存在であり 完全なるものを希求すると言う性善説が根本にはあるわけですが、これは近くはロシアによるウクライナ侵攻 近過去の現代史の範疇に入る範囲の出来事では9-11がありました。また自然災害とは言え 3-11もまた 神の世界創造による概念を揺らがせました。核物資こそ性善説とは別の世界から生まれた概念であり世界観的現実であったのです。


 いま進行中の世界の出来事に比べれば私のtrainingの事情など陳腐で卑小ないちeventに過ぎませんが、人は自然態のままでは必ずしも上手くいかない つまり性善説の曲がり角と言う事との間には世界と私を繋ぐ 共振現象があったような気もするのです。

 ミクロなものとマクロなものが交差する!イロニーですね。