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 『嵐が丘』と言えば ヒースクリフの抱いた墓地の幻想 死後相並んだ二つの棺が朽ち果てて 骸が絡まり合って一体になると言う気持ちの悪い幻想だけが記憶に残っていて それが長い間この本を完訳本で読み直すと言う経験を尻込みさせて来たのでした。

 さて 中学生の頃 ダイジェスト版でこの書の一端に触れた印象がどう変わるか、それが私の主要な関心事でした。


 随分と理不尽なお話しですね。善意の紳士が街頭で拾い上げた少年を、家庭で家族同様に育てようとした出来事を発端に、紳士の死後 家庭内の陰湿ないじめの構造に蒸らされて二家の二代に渡る愛憎劇に発展するのですから。

 とは言え 北イングランドのヒースと言う原野が広がる風景は、このような荒涼とした小説の舞台には相応しかったのでしょう。


 『嵐が丘』は良く知られた内容ですから 悪魔的な性格の持ち主に発展したヒースクリフが、晩年、悪役にも似ず呆気ない死に方をする最後の場面 ーー頑強な精神と肉体の持ち主にも関わらず起きた 不思議な回心の動機に付いてお話ししてみたいと思います。


 『嵐が丘』の面白いところは 人は憎しみを糧にでも生きる事ができる と言う事ですね。寧ろ 憎しみゆえに旺盛に!強かに!と言うべきでしょうか。あれほど執拗に両家の一族の者たちを追い詰めて行った彼に回心の時ーーと言うか、憎み続ける事の意欲を削いだのは 親愛なる者たちの若い男女の風景だった と言うのです。彼の経歴や今まで行って来た無慈悲な行為の数々を見ていると俄かには信じられない事ですが、この聖家族の風景の一端とも思われる風景に遭遇したとき彼の内面に浮かび上がったのは、まだ養父である件の紳士が生きていて 彼に対する理不尽な仕打ちが本格化していない頃の、キャサリンと過ごしたままごと遊びの世界の幻想性だったようです。この風景は彼の全身から彼の全実存の根底とも言えた憎しみの感情を抜き取ってしまうと言う 奇跡を演じたらしいのですね。彼を回心させる為には 道徳や宗教的訓戒は無意味で、手つかずの無垢なる幼年期の原風景だけが可能にしたのでした。言い換えれば、この風景の為なら死んでもいいと思わせるものがあった と言うわけですね。分かり難い心理かも知れませんが、死んでも悔いは無いと思わせるシーンが確かに人生にはあるようなのです。


 次に述べたいのは物語空間の歪み、と言うか捻れ と言うか語られる文脈に於ける物語的世界空間の変容についてです。

 『嵐が丘』を通読して感じたのは人間性の描写の触れ と言うか近代的作家の視点描写の不一致です。

 どう言う事かと言いますと 近代的小説の作者の前提は、語るものとして 神の座にも似た不偏不党の客観性が要求されているようなのですね。実際に 作者が彼の登場人物たちの好き嫌いは別にしても 依怙贔屓をして描いていたら作品世界の統一性は損なわれてしまうでしょう。もちろん神の座にも似た普遍的視座とは理想形であって果たせそうも無い理想型であるのですが、なるべくそれに近づけようとするわけです。それが近代小説の前提で、リアリズムと言う事の意味なのです。

 エミリーの『嵐が丘』は、その点でリアリズムになり切れていないと言う見方もあるでしょうが、同じ登場人物でも語りの局面ごとに印象を違えて描写してあるのです。現代小説の一手法として 描写する語り手の複数性を利用して 諸人物の眼に映じる毎に違った風に同一の人物を描き分けると言う手法は存在しますが、ここでは神の座にもあるべきに等しい不偏不党であるべき作者の描写法の触れとして それが表現されているのです。これは同一の語り手の、その時々の気分による描写の乱れ と言うものとも違うようです。また 視点が定まらないと言う物語作家としての未熟さゆえの表現の触れとも違うようです。他方では 語り手は物語世界の枢要な位置を占めながら、且つ各登場人物たちとの間に、役割り関係に於いては枢要な位置を占め 利害関係の中に組み込まれてありながら 且つ あからさまで利己的な利害を有しないと言う 巧妙な設定の仕方がなされています。ここでは、単に傍観者的な語り手ではなく 物語り世界にキーマンとして参画し得ていると言う 語り手兼登場人物兼作者の代理 と言う語りの凝った仕組みが見られるのです。しかも 彼女から話を単に傍観者的に聴くと言う話者は、また別に存在すると言う 複雑な仕組みが見られるのです。係る客観性は、階級社会に於ける階級性が、他階級の出来事を見聞し語ると言う形式ゆえに可能だったのかも知れません。階級から疎外された者には、他階級の出来事とは利害関係が生じようがないからです。

 むしろ 私たちが無意識のうちに前提としている作者の第三者的客観性とは、つまり今まで再三に於いて私が述べている神の座にあるが如き不偏不党の客観性とは一個の欺瞞に根ざして成立した絡繰りではなかったでしょうか。そのような この世にありもしない抽象性 視点の欺瞞的幻想性 欺瞞的形而上学によって、却って描かれ損なった生々しい人間的描写はなかったのでしょうか。むしろ物語作者は、登場人物たちの血のでるような利害に関わる事で、自らは手を汚さない欺瞞性の陥穽から自らを解き放つと言う 自由度の自由 を求めても良いのではないでしょうか。

 『嵐が丘』は、時代の制約から来るリアリズムの不徹底によって、却って局面毎の描写の臨場感の創出に成功しているのです。単一の作家的視線から見られた登場人物たちの平板性 類型化から救い出しているのです。

 『嵐が丘』が与える迫力 臨場感は主人公ヒークリフの性格描写と共に、単なるリアリズムを超えた参加型の語り手の設定と言う 物語り作家の独特で個性的な視点の設定にあった と言えましょう。