『「いき」の構造』で知られる九鬼周造の全体像が分かる本である。

 九鬼は哲学用語で説明しているから難解だけれども、くだけた言い方をすれば以下のようになる。

 『「いき」の構造』は 「いき」を定義するものとして 媚態 意気地 諦め の三つの言葉から説明している

 「いき」は、主として近世近代に於いて遊郭で発達した言葉であるようで、根元には男女の性的なエモーショナルな関係を前提としていた。

 単なる男女の性的な関係が、社会的な慣習と習慣に練磨されて 意気地(粋)や諦め(執着を絶った大人の愛)によって 艶(粋)と洒脱さ(諦念)を持つようになり 更には男女のエモーショナルな関係を離れて 普遍的な洗練された生き方一般を意味するようになった。


 また 九鬼は「いき」の哲学者に尽きるものではなく、寧ろ 偶然性の考察を通じて 同一性哲学への反措定 現実にあるがままの個別的な偶然性から哲学は出発すべきであることを終生の課題とした学者であることも分かった。


 九鬼の個性は哲学の範疇に留まらずに、文学と言語の問題にも関わっていく。一つは時間の芸術としての文学に就いて。今一つはそれを表現しうるものとしての日本語の固有性に於いて。

 それぞれが固有の課題として抜き差しならに問題を孕むものである事は感じつつ、いまのところ私はこれらを網羅的に論じる準備が出来ていない。


 今回読み終えて一番感銘を受けたのは生ける現在としての時間 それも循環し回帰する円環としての時間体系の中に置いた場合の「現在」が持つ幅と厚みを持った時の重層性である。

 古典的西洋文学の世界では永遠の課題であるかのように憧れと憧憬の対象とされてきた「永遠の現在」とはなんなのか?また九鬼言うところの「永遠の今」とは何か?この二つは同じものなのか、違うものなのか?

 藤田正勝教授の本文での説明によれば、前者は時間の外にある超時間的な概念のようである。九鬼の理解は、循環する時間の無限の過程に過去が切り込み、その切れ目の垂直面に 現在という鏡に己を映し出す 重層的な現在と言う時制と時間概念の過ぎ逝く面影のように私には思われるのだった。