今日は久しぶりに百道の総合図書館内に敷設されている映画館「シネラ」に行きました。

 午前中はヴィム・ヴェンダーズの『緋文字』、ナサニエル・ホーソン原作の者の映画化ですね。原作も読んでいますが、17世紀のボストンをどのように映像化したのか、と云う方に興味が注がれて生きました。

 ところで、この映画に描かれたヒロイン、ヘスター・プリン、余りにも堂々としてい過ぎますね。宗教的なものと自然的なもの、その起源史的な対立を描けば面白かったのでしょうけれども、原作はそのように必ずしもなっていません。原作では憎たらしさ極まりない卑劣漢で偽善者のチリングワースも外連味のない高人物として描かれていて、もしかしてヴェンダーずには宗教的なものと自然的なものとの対立が見えていたのではないかと思わせる節があります。

 しかし結果的には、不義を犯した神父でありかつヘスターの恋人である牧師は死んでしまうし、チリングワースも事の成り行きを見届けて、インデアンの世界に、つまり西洋世界とは隔絶した自然界に帰っていきます。かかる自然に対する敬意が、例えばホーソンの原作には希薄なところであって、現代に於ける映画化の意義はあった、と思います。

 ただ、映画の出来としてみると、愛の自然と云う心情を貫いたヘスター・プリンが立派すぎて、自由と良心を束縛するニューイングランドの地獄から逃れてイギリスに代表される古きヨーロッパの伝統に帰る、と云うのではあまりにも感銘が薄いのです。

 メイフラワー号の子孫たちは、こんなに陳腐な人々だった、と云うのでしょうか。

 

 原作の魅力は、人間の自然を信条に、宗教の自然を追い詰め破壊しるチリングワースの執念と、内なる秘密の咎に懊悩する牧師の心理劇にあります。この若い多感な牧師を宗教的政界が外から囲繞し規制したように、チリングワースは人間の自然の名において牧師を冷酷に攻め立てるのです。こういう意味ではヘスター・プリンもまた、愛の自然を信条とし信奉したと云う意味では、チリングワース同様の近代人であり、同類であったと思われるのです。

 若き牧師が自然にも文明にも帰ることができなかった理由がお分かりになるでしょうか。牧師は自然と文明(宗教)の狭間で軋みながら息絶えるのです。

 

 『緋文字』が取り扱ったテーマは、人間の自然、とは何であるか、と云うことだ。ヴェンダーズはそのことに自覚的ではなかったし、ホーソンの場合はむしろ近代的な知性が持つ冷酷さ、――自然に目覚めるがゆえに冷徹に物事の本性を追及して止まないと云う徹底的な近代的知性の冷酷さの描出にあった、と思うが、如何?