ヘンリー・ジェイムズに『アメリカ人』と云う題名の本があるけれども、彼の諸作群とルイーザ・メイ・オルコット女史の著名な小説、テレビのシリーズでも有名になったワイルダーのいわゆる「大草原シリーズ」によって、わたくしのアメリカ合衆国に対するイメージは随分と変わってしまった。それは今日でいうアメリカ的なものと云うよりもジェイムズが言うニューイングランド気質、ローラ・インガルス・ワイルダーの諸作にみられる清教徒風の気質である。『若草物語』や『大草原の小さな家』の世界に浸りながら感じる、ありふれているようで万人が自然な共感を感じさせる普通らしい生活の中にある、ある秘められたようなものの存在、異教徒であるわたくしたちには容易には開かれない閾の外にある目に見えない祭壇のようなもの、そのあり方が実に彼らが意図的に隠していたわけではないのだけれどもあまりに自然な出来事であるがゆえに、宣教と云う行為をごく自然になしてしまうモーゼの末裔に生きる人々であることを納得して、これらの世界の背後に広がる、日本人として感じるある種の感情の収まりの悪さや不自然さの感覚が払拭され雪解けの水のように溶解していくのを感じた。
 ヘンリー・ジェイムズの『アメリカ人』は、欧州を旅する平凡なアメリカ人ビジネスマンが、かってコロンブスが大西洋航海の果てに新世界を発見したように、古い伝統的な社会の圧倒するような文化の実在性に囲繞された世界の中に、「アメリカ」を発見する逆の物語である。アメリカ的であるということが、人がひとであろうとする場合に何を意味するかと云う物語である。

 わたくしたち夫婦はテルミニ駅からほど近いサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂があるエスクイリーノ広場に面したホテルに宿をとった。二つの巨大なドームとローマにいればどこからでも見ることができると云う高い鐘楼を持つ大聖堂はどこからでも確認することができたが、特に朝食の会場となった屋上のテラスとオードブルが置いてある北側の二つの席からは、間近に、迫力をもってその威容に対面することが出来た。わたくしたち夫婦は朝食を摂るたびごとに、その前後には必ず一番よく見える屋上のテラス席まで歩いていていって手すり越しに魅入り、飽きずに互いに讃嘆し合ったものである。
 わたくしたちは都合七日間このホテルに泊まった。週の半ばにローマ入りをし同じ曜日に出ていったので、週末を挟んでその前後のホテルと教会前広場の雰囲気を経験したことになる。前半は週末に近いと云うこともあって多国籍の観光客が半数を占めた。後半は欧米系の老夫婦の組み合わせに加えてイタリア語を喋る上品な老夫人たちのヴァチカン諸寺めぐりのグループとも一緒になった。老夫人たちのグループは時間帯が違っていたのでテーブル席で会う機会はなかったが、週の前半と後半では雰囲気ががらりと変わった。週末近くの前半のどちらかと云えば観光目的の比較的若いカップルの客は、時間を惜しむようにそそくさと朝食を平らげると出ていった。後半の客はゆったりと談笑しながらやや長めの時間をとった。ただ、どちらにも共通していたのは一部を除いて、それほど巡礼の町ローマの象徴、サンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の威容に魅かれているようにも、この場に居合わせたことの幸せをしみじみと感じるというわけではなかったことだろう。
 
 わたくしたちがそのアメリカ人の夫人を見たのは出発の日の三日前であった。午前七時を少し過ぎたところで客はわたくしたちだけで、偶然にひとりでアイフォンを扱っている彼女の席の斜め前に案内された。所在投げに携帯の画面を手でなぞっていた彼女が足音に気づいたのか手を止めて、瞬間、視線をテーブルからこちらがわに気だるそうに投げて、また静かに手元に自分の視線を引き取った。
 その日は春めいた日だった。アメリカの方ね、なんとなく雰囲気で分かるわね、と妻が言った。多国籍のカジュアルな服装や、冬の終わりのころの黒や茶色の旅衣装が目立つ食堂の雰囲気の中で、モーヴ色のダウンを椅子の背にかけて、白い胸元を開けたブラウス姿の彼女は金髪と白い肌が似合っていて、眩しいようなもの憂げな春の時間が小川の淀みのように彼女をめぐり漂いせせらぎ流れているようにみえた。
 五十歳前後だろうか、もう少し若いだろうか、特に美人と云うわけではないのだけれどもいつか見た千九百五、六十年代の映画のワンシーンを思わせるような独特の雰囲気がある。それは洗いざらしのジーパンに自然に白い襟元がはだけたブラウスを着こなす感性の持ち方にもあるだろうし、ガイドブックを丹念に復習する成熟した女性の背後に浮き出ている女学生のような真摯さと生真面目さ、熱情と冷静の間に距離感をもって自分自身を眺めることができる生真面目さの雰囲気にもうかがわれよう。それよりも彼女を魅力あらしめているものは彼女が春を代表していると云うあり方である。襟元の華やぎや服装や立ち振る舞いによって季節感を、気ままに自分の回りを流れる時間を見遣る距離の取り方によって冷静と知性を、所在なげな時間を持て余したような独特仕草はかえって何ものにもとらわれることのない自由、独立自尊のアメリカ人女性の自負を表現している。それにもまして驚嘆すべき才能は、彼女がその日その時に一番相応しい雰囲気を表現する才能の持ち主であるらしい、ということである。
 その後、待ちきれないように彼女席を立ったが、それは帰るためではなく朝寝坊の息子を迎えに行くためであった。程なくして、眠気が抜けないままのだるそうな姿勢で席に着いた息子は背は高かったが、表情は幼く従順で、仕方なく高校の休暇を利用してイタリアの観光に連れてこられているという雰囲気だった。日本でも高校生にでもなれば母親との二人旅など退屈極まりないことだろう。しかし母親よりも長身の少年は反抗的ではなく、天使のような気だるそうな表情に重ねてただ眠いだけなのであった。少年は一皿摂ると諦めたように両手をテーブルから膝に引いたが、ほとんど食はすすまないようだった。母親は何か子育てのことで気がかりなことがあるのか時折、ため息をつくわけでもなく、あの無造作でもの憂げな魅力的な視線を少年の肩のあたりに漂わせていた。彼女の場合魅力を成している、このどこかもの憂げな気だるさの感じを与えながらどこか独立自尊の気風を漂わせた無造作で自然児じみた感じは、自分自身に対して距離感がとれると云うこと、盲目な熱情などとは無縁な性格であることを語っている。
 わたくしはその日の朝も食欲は旺盛で何度となくオードブルのテーブルと自分の席の間を往復するために彼女の席の間近くを通った。わたくしの席からオードブルのテーブルに行くためには出入り口が二か所あって、その間に彼女の席があったので、わたしは往路は左手を復路は右手をとるようにしたので、自然と太陽の回りを円周運動をする衛星ような結果になってしまった。その度ごとの彼女は例の自由気ままな独立自尊の姿勢を崩さず視線はテーブルの上に置かれたまま微動もしなかったが、彼女の回りを回転するごとに強い磁気をわたくしは感じた。感じとることがなかればオードブルをとりに行くのに、最初は彼女のテーブルの左側の側近を、次には右側をやや離れてと、ともに往復の両行程を違ったふうに交互交互に、円周を描いてゆっくりと歩いてみる、と云う邪気に満ちた大人げなくぃ所作はとらなかっただろう、と思う。右を歩いても左を歩いても磁気を感じた。磁気を感じるとは、身じろぎもしないまま目で見るのではなく、心で響く行為を聴くと云う宗教的行為に似ている。わたくしの歩む靴底の低い響きのひとつ一つを数えるように磁力が強く弱く、強弱を刻んで彼女の方から伝わってくる。わたくしの所作もまたそれに応じて、上下動のない能楽における水平移動か茶道における席入りのように、片手にオードブルが乗った皿をもう一方の手で軽くグラスを奉げ身体の平衡を方位で保持したまま、前方手前三メートルの方向に視線を落したまま自分の意識や素振りを消去すべく、歩調を乱すことなく、淀みなく、決然と真っすぐに歩いっくように努めた。
 わたくしは自分の席が近づくと、大きく回り込んで自分の席に着く。そうすると自然と対面する配置になって、わたくしの背中を追っていたもの言わぬ眼差しが、ふとわたくしのテーブルの方へと野球のボールのようにミットに落ちた。視界の外れの方で、胸元を飛沫のようにはだけた白いブラウス姿の映像が歪んで、身じろぎが微かに揺れる。
 彼女が日本人の老人の邪気のない無邪気極まる行動にきがついたかどうかは分からない。いつも通りに長居して食事を摂る習慣のわたくしたちの回りの客席には何度か入れ替わりがあったが、彼女は所在投げにむずがゆそうに椅子の上でお尻をこすり付けていた少年が去ったあとも、特に姿勢を変えるわけでもなく、視線をテーブルに落としたままで、目立たない金髪と、性差のない青年のような爽やかさの中でひとりローマの春を演出していた。
 いつものようにわたくしたちが長めの食事を終えて席を立つと既に彼女の席には白いコーヒーカップが残されているだけで空虚になっていた。と云うのもわたくしも毎日の労働と毎朝の旺盛な食欲に紛れてひとりのアメリカ人女性に関心を魅かれた短い時間があったと云うことを忘れていたと云ってもよい。いつものように食後の、大聖堂が一番よく見える外のテラス席へ行こうとそこに通じる五段ほどの階段を登り、ドアを手前に引いて外に出ると、そこには手すり越しに大聖堂の威容に見とれている彼女の姿がひとりあった。十メートルほどの距離を隔てて豊かな金髪を風に靡かせながら身体ごとこちらにむけて視線を返されてきたとき、まるで白いブラウスのはだけた襟元の海の白い泡立ちの中から出現したボツティチェリの女神のように、あるいはプリマヴェーラのように、唇から春の息吹と芽吹きの緑色の糸蔓を吐き出しながら、春を演出する荘厳な自然の輝きと眩しさにわたくしはたじろぎ、風にそよぎ顔に纏いつく金髪が女神の光背の月輪のまあるい暈のようにも思えて、圧倒的な気圧差に押されながらあとすざりし、真面に向き合うことが不甲斐なくも躊躇われて、逃れるように、生起している事象の何たるかを知らず、理解せず、生起する事象の、事物の存在にまるで気づかなかったかのように感動に首をうち振りながらも視線を逸らせ、逸らせた反動の波に大きく打ち上げられ持ち上げられながら、うねりに乗せられたままの身体は、幻想の領域へと浮遊して裂けて砕けて、視線は大きく水平線とともに傾きながら、あらぬ大聖堂の方向に視野の対象物を探し求めるほかの術はなかった。この場面を心理の空間構造図学として捉えれば以下のようになる。
 仮にローマの上空を旋回する鳥の視点にたって俯瞰するとすれば、大聖堂を円弧の中心点として二人の視線が聖堂の方向へと重なる遠近法で云う消点上にマッジョーレの祭壇の映像が想定され、その消点を起点として描かれた幾何学の二等辺三角形がローマの空に三位一体のトライアングルを、つまりカソリックの教義上の虹を描いた、と云うことに例えばなったであろうか。わたくしが眩しさから目を逸らすように大聖堂の方向に視線を時計回りの方向に右旋回させたとき方向線上にはマッジョーレの二つのドームと並び立つ鐘楼とオベリスクの映像が結ばれた。わたくしの旋回する視線を追うように彼女もまた視線を旋回させたとき方向としてはわたくしの立ち位置から大聖堂の方向に旋回したのであるから反時計回りと云うことになる。つまり主祭壇の向かって右脇にあるローマのバロックを描き創造し演出した偉大なる建築家ベルリーニの墓碑のことを夢想しながら同じ思いをもって、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の祭壇を起点に、一方は大西洋の波濤を越えて、他方は白夜のシベリアの上空を越えて、二人の東西の美術愛好家の気持が重なり合う瞬間が確かにこの世のなかに稀有なものとして、その日その時、あったのである。

 その翌日、行動的なアメリカ女性と勝手に思っていたので彼女は既に立ち去ったと思って好みの一番奥の席についた。ところがほどなくして白いベージュの嫋やかなロングドレスにまるでローマの空のようなラピスラズリの鮮やかなショールを首周りに雲のように靡かせた彼女が忽然と扉の陰に姿を現した。今日は何か特別な日であることを暗示させる。彼女は決然と周囲を見回すことなく一直線にこちら側に歩いて来てわたくしの隣の席に躊躇なくついた。なぜならそこからがは別の意味でそこからが室内にあって、唯一大聖堂を望むことができる位置にあったからでもある。いまやわたくしたちは互いの呼吸、吐息やため息の息遣いが手にとれるように聴こえるほどの至近距離にあった。
 なんと素敵な方かしら!と妻が今日の彼女の特別な今朝の衣装について感嘆の叫びを挙げる、あんな素敵な靴をわたしも履いてみたいわ!今朝はいつも履いているスニーカーではなかったことになる。わたくしは手元のコーヒーカップに注いでいた眼差しを無理に大聖堂の方向に向け直す。
 わたくしは彼女の席に対しいては斜め九十度の背中を向けているので彼女の容姿を見ることはできない。逆に彼女はわたくしの横顔を完全に俯瞰する位置にあるのであるが、結果としては二人は視線を互いに通わせると云うことが出来ないので視線は自然と大聖堂とオベリスクの方向に所在投げに流れた。大聖堂を幻想の鏡として朧げな容姿を確認しようとする。こうして再び大聖堂を起点とした物言わぬ幻想の二等辺三角形が虚空に虚しく描かれる。それがわたくしには旅の行きずりの別れの挨拶であることが分かった。旅の、手持ちの数少ない衣装トランクのなかから晴れの姿を演出していることがわたしには分かったからである。それは冬が終わろうとする頃のローマの春の最高の演出のひとつであると云ってよかった。
 たんなる旅の宿りの一週間の間にローマの冬と春をわたくしは彼女のおかげで凝縮された経験として体験することが出来た。一人の日本人が男性として、もうすでに若くはないひとりのアメリカ人女の夫人の所作と容姿と立ち振る舞いに深くこころ魅かれた。そこに通常ありがちな男女の関心ごとなどを想定することは見るもの感じるものその人の勝手である。一人のローマに関心を持つ知的なアメリカ人女性がその日その時に相応しいローマをパーソナルなものとして感受し受け止め、美的形象として至るまでに外界に反映し表現し得ていたこと、そしてその行為を率直に感受し感性があふれるままに美しいと感じた一人の日本人の老人が、いた。それ以上でも以下でもない、旅の日のローマにおきたささやかな物語の一部始終に誰が関心をもとう、儚い、ふと掻き消えるような旅先のつかの間の思い出、一年後に憶えているかどうかも分からない双方にとっての不確かさの極み、単なる記憶の時系列の羅列、時の奔流のなかに紛れてしまう単数の事実、行きずりの単純な記憶の痕跡のひとつにすぎないのではあるが。
 わたくしたちは旅立つために大型のトランクを並べて玄関ホールの椅子にいた。午前十時ころだったであろうか、朝起きが苦手の例の長身の息子を儒者のごとく従えた彼女がエレベーター口に姿を現した。わたくしたちは余りに近すぎて気が付かないようなふりをした、いまは完全に別人となった旅人同士となって異国の古びたロビーですれ違う。鈍く発光する古びた真鍮色の回転ドアがゆっくりと夢のように回転して、金色のドアノブを押し開けて街角に去っていく親子の姿がローマの影となって消えていくのを見送るために、初めてわたくしは自分の意思で席を立つと窓辺からサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の方向を見やった。わたくしはローマに分かれを告げる。いつもの普段着のジーパン姿に機能的なモーヴ色のジャンパーを羽織っただけの彼女がまるで意気の上がらない従者を引き立てて戦場に出向いて行くユーモラスな白い影が、ローマの気だるさの中で性別を超えた若武者の出で立ちのようにも、性差を超えたローマ軍団の晴れ姿のようにもみえて、大聖堂広場前の露天商の店先を二度三度と、歩いては勢いよく立ち止まっては、口元に手を当てて輝かしく笑みを浮かべ、微笑みを光の波紋のように、あるいは宗教画の光背のようにも少年の方に波状的に折り返ししながらもなお、出店の露店を冷かす親子の親愛なる愛の風景がテントの影と陰を通して見え隠れする遠ざかりゆく点景が、宗教的で崇高なシグナルのようにラピスラズリの春の陽気の中に点滅する。その颯爽としていて滑稽でユーモラスでいて、そして哀歓を帯びた二人の白い記憶の人影が、いとおしいまでに人ごみの中に紛れて消えていくのを、いまはわたくしの伝説となった、ドン・キホーテとサンチョ・パンサを演じる親子の姿が醸す高雅で知的でユーモラスな風景がいつの日か遠い思い出となって、エスクリリーノ広場の街角が愛のテルミニ(終着駅)に向かう通りに接するサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の二つのドームと鐘楼が屹立する広場の雑踏のなかに消えていくのを、まるで地中海のラピスラズリの波間に消えていく在りし日のローマのガレー船の船影か、ローラ・インガルスの幌馬車の隊列が大草原に消えていく追憶に喩えて、わたくしは見送るのだった。
 この日、2016年3月15日火曜日午前十時半、ローマの石畳から立ち昇る春の陽気のかぎろいのなかでローマは永遠であった。


(あとがき) ローマへの旅がずいぶん昔の思い出と化してから、わたくしは古いアルバムの整理をしながら一枚の写真を見つけた。それは、あのメチェテナーテ・パレスの屋上にあったレストランでの写真で、その写真には右手に大きく、白いテーブルクロスを前に妻の満足そうな笑顔で応じた映像が映っている。そして、左上の片隅に、偶然にもこちら向きの面影が、あのアメリカの夫人の肖像画が紛れ込んでいた。
 肖像画と書いたのは、わたくしは懐かしさに駆られて、写真左端の部分映像を拡大してみたのだが、そうすると映像は大きくなるに従い粒子が荒れて表情は定かではなくなる、時代が遥かに昔へと後退して、宮殿か教会の天井か壁かを飾った、古い退色したプレルネサンス期のフレスコ画のように見えるのである。
 むしろ荒れた粒子の背後から雰囲気は確実に伝わって来て、あの日衛星が恒星の回りを廻った時があったように、ダイニングを移動するわたくしの背中を追っていた眼差しが、やがてテーブル席を軸に向き直ったわたくしと視線を落したまま向かい合い、穏やかにこちらに振り向けられた面影の雰囲気がよく出ていると思った。
 初対面の時は五十歳前後と思われたその相貌が、いまこうして写真で見ると、まるでルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』のセーラー服姿のタジオに似ていると思った。彼の面影から、残された男性性を差し引いて清楚な水色のセーラー服姿の少年像を思い浮かべればよいだろうか。二十歳前の大きな男の子を持つ、子育ての盛りの成熟した婦人の一人であるのに、わたくしの目には性差を越えた百合の花の精華か、清楚さの象徴のように思われたのである。
 波打ち際の透明な泡立ちを思わせる、はだけた白いブラウスから盛りあがる炎の噴水のように立ち上がる首筋と項が描く曲線とが、定かでない面影の憂愁を支えるアルカイックの白い胸像のうえに、頬に纏いつく淡い金髪がルネサンス期の古い退色した諧調の調べを低く歌っている。それは子守唄のようにも惜別のリートであるようにも聴こえる。いま、久方ぶりに陽の目をみる中世の館の階段に飾られたフレスコ画の、朧であると同時に記憶の彼方に霞んで消えていく聖なるものの面影が、夏の日に雪が降ると言い伝えられてきた伝説の中で、なにかを問いかけるように、しっとりと湿りを帯びた眼差しでこちらを見つめ返してくる、あの時のように。