黒の過程”のゼーノは色っぽい、というより破戒僧に近かったですね。自由に対する熱烈な愛、ユルスナールにお説教やイデオロギーを読む読み方を余りしませんが、多田智満子さんたちのセンスからすれば、ダサいと言うことなのでしょうか。
 
いま念頭には、アベラールがあります。アベラールは自由な生き方をしたばかりに復讐を受けます。考えられる限り最悪の男であることへの侮蔑、屈辱、尊厳に対する大きな挑戦、そう、かれの一物に向けられた損傷!だったのです。
 
これに対するアベラールとエロイーズの反応は違ったものでした。よき意図がどのようにして神のこのような罰を呼び込むのか、二人はその解釈を巡って悩みました。
 
アベラールがそこから受けた解釈は、不合理ゆえに我信ず、とでも言うべきもの、彼は初めて世俗のことどもから開放されて心の平安を得ました。生命の過剰とも言うべきこの中世の異端児にとってはこれは救いでした。すでにその当時キリスト教の中には去勢という手段を通じて神の神秘に通じると言う逆しまな考え方が一部普遍化していましたので、彼のピエティスム(静寂主義)には都合がよかったのです。
 
しかしその考え方こそエロイーズに納得のいかないものでした。彼女はそのような旧約的な神をそのまま許容することはできませんでした。もちろんここから神の不在を結論したわけではありません。彼女が反対したのは神義論的な様々な屁理屈を付け加えることよりも、人間の高貴な意図が結果によって限定されることへの抗議なのでした。
 
人間の高貴な意図は、世俗の限定化された意味、結果や諸教訓によって限定されるかというギリシア哲学以来の問いなのですね。回心後のアベラールの呼びかけにも関わらず、エロイーズは納得しなかったようです。核心的な論議に関する対話の打ち切りを提案するエロイーズの手紙には断固とした響きがあり、この通信を最後に、アベラールの死後も30年ほども生きた彼女の伝えられることなき消息は、杳として中世の記憶の彼方に消えてしまうのです。
 
例外として、アベラールの遺体を密かにエロイーズのもとに届けた尊者ピエールの心温まる逸話がありますが、これは書きましたね。
 
(追記)
わたしたちは、アベラールとエロイーズの物語に、大昔の純愛物語や悲恋物語を読み取ることだけでは不十分なのです。愛は、近代において精神的な純化の過程をとりますが、そこにキリスト教的な教訓を読むことも、個人の自立性の昇華された精化の造化の華の形姿を見ることでも不十分なのです。
キリスト教の伝来以来、愛がもっぱらマリアの愛として即ち肉体なき形象としての愛として、あるいはその反作用として肉体的なヴィーナスの愛として二極化してみる構造こそ問題なのです。
 
歴史的記憶の消えかかった儚い伝承的世界の中に佇むエロイーズが持つ意味は、キリスト教の伝来以降人間の歴史から何を得、何を失ったか、と言うことなのです。こちら側から見ると後ろを向いて立っているエロイーズの姿には、暮れなずむいまだ虹彩を失っていない古代の光が反射していました。彼女の立ち姿と長く尾を曳く影は、愛がアガペー(キリスト教的無償の愛)に変質する以前の、生き生きとしたエロスの愛としてその姿を刻印していたのです。