豊かな時間のために
――公共ホール・地域の拠点――”芸術”と”アート”――役割技術としての映像技術


1.“芸術”概念の変遷について
近年、アーツ・マネジメントにおける自主事業や公演・サークル活動を、従来型の鑑賞型企画とどのように位置づけて行くかといくことは必ずしも明瞭でない。企画における収益性や芸術性という点を重視すれば前者になるであろうし、地域コミュニティにおける文化創造、というふうに考えれば後者になるであろう。
 ここでは問題を明瞭にするために“芸術”と“アート”の違い、というふうに読み替えてもよい。通常われわれが既知のものとしている“芸術”概念は、19世紀型天才思想が生んだ消費文明型の類型とする歴史的な意味限定は否めない。芸術を対象性のものとして考えるのではなく、プロセスとして考えたらどうなるか。つまり消費文化型ではなく生産文化型のメディアとして考えたらどうなるか。ここに、アート、サークル活動や生涯教育・アウトリーチ等を踏まえた多様な展開となる。芸術のアート性の基に映画製作を考えてみたい。

2.地域文化ホール(拠点大学を含む)における映画製作技術について
 映画を通じて若い人材の育成を図る。それも子供たちの感性を育むための手法として映画を位置付けたい。映画の他の多種多様なメディアに対する特性は、表現の即物性、記録性、それから平易な表現性だろう。
 映画には、即物性としての描写の正確さ、記録性がある。しかもリアルタイムであることから、描かれる対象との距離の目測・臨場性が可能となる。また複数のカメラを使用することで、子供たちは映し写されることによって地域という生活空間をドラマ化することで、そこに参加しうる。
 また映画製作は、地域の成人やリタイヤした専門家の協力を得ることで、年齢を超えた地域の文化の輪に貢献しうる。映画はある意味で総合芸術であるので、多様な人々の才能が生かされ、参画にいざなう、合議参加型の創造的文化芸術であるという意味では、他のメディアにない特色を持つものである、といえる。

3.豊かな時間のために
 ドイツの高邁な政治哲学者ハンナ・アーレントは人間の生存のための本質的な生産様式としての労働を以下の三つに区分した。〇纏work―∀働labor―3萋actionである。
 豊かな時間を得るための施策は、個人の自助努力や市場原理まかせというわけにはいかないであろう。人は何のために生きるか、地上の生存的時間をどのように過ごすかという問いは、もちろん個人のレベルの素養の向上はもちろんだが、行政や法整備といった行政的手法が不可欠であろう。憲法に保障する文化的に生きる権利を造るための枠組みを、今後30年から50年後を視野に整備していくことが必要だろう。その過程から、国民は自分たちに欠けていたものが何であるかを、国民的なニーズとして理解しうるであろう。
 また個人のレベルでは労働を神聖視する近代的な労働観から脱却しなければならない。義務教育は軍隊・病院・工場とともに制度としての労働観の成立に深く関与した。この中から義務教育そのもののあり方も問われなければならないだろう。また、義務教育ではない高校・大学・大学院の在り方も生涯教育の観点から、”それが今後も最適のスタイルなのか”が、問われなければならないであろう。60年代の青年たちの”大学解体”の理念は荒唐無稽とばかりは言えなかったことを理解するであろう。
 わたしたちは、こうした制度を踏まえた改革の中から、旧来型の芸術観や労働観を克服し、資本主義とは違った意味で、地上性を超えた価値などこの世には存在しない、徹底した知の地上性と内在性を学ばなければならない。私たちの生涯――地上に滞在するという考えは、有限なるものとしての人間という概念に立ち戻ることになる。この世の中で出来て、できないものがある。過大な理想は過小な理想とともに人間を堕落させる。近代人以前の古典的な人間が持っていた知恵や節度という考え方も、人間の有限性の人間理解のもとに回復されるであろう。人間は多様に生きるだけではなく、人間的限界と摂理を理解しながら多層的に、あるいは複音楽における群れ集う音符の離合集散・集合離散のように、”複時間”的生の多様な層をを同時に、生きることができるのである。