高橋慶彦氏…あの時カープは輝いた | 広島葬儀 広島家族葬 広島直葬 お一人様の葬儀 株式会社安芸葬祭・家族葬エキキタホール…広島市東区、府中町の葬儀社です

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昭和最後の広島のヒーロー


私には、高橋慶彦だった。


今は更地になり無くなったが

広島市西区三篠町にあったカープ打撃練習場。


ホームゲームのとき、朝早くから練習していたのは

間違いなく高橋慶彦氏であった。


高橋氏に続くように、多くの選手が

この打撃練習場に入り打ち込みをしていたのだが

早い者勝ちのルールが存在した、この場所では

圧倒的に高橋氏が、一人勝ちのような聖域の場でもあった。


この練習場は、当時わたしが住んでいた場所から近かった。

練習場の数十メートル近くになると、必ずバットに当たるボールの音が心地よかった。


間近で見られるプロ野球選手の練習。

この打撃練習場もそうであったが、近くにある三省寮の敷地内にあるブルペン。

ここも捕手のミットから響く快音が素晴らしかった。


当時のカープは、本当に身近な存在であった。



打撃練習場に話を戻す。


当時は一軍も二軍も関係なく、この打撃練習場は自由に使用出来たらしい。

二面のブースが存在し、北側にある一面のみがマシンが備え付けられ、西側は誰かが投手役をしなければ練習できない仕組みになっていた。


私が行くと、必ずマシンを占領していたのは高橋氏であった。


そいて一番長い時間練習したのも高橋氏であった。


昭和54年…このとき高橋氏には、指導者もつかず、たった一人の自主練習であった。


過去に野球を経験した人ならわかるだろうが、個人練習という単純な作業は、つい横着になり妥協しやすくなる。

しかし、横着と妥協に関しては、この高橋氏には全くの無縁であった。

その証拠に、他の選手が練習場に入ってきても、全く気付くことない集中力が彼にはあった。


山のように積まれたボールをゲージに入れ、打ち終わるとそれを拾い再度ゲージに入れる。

その単純な作業を、彼は何回も繰り返す。


他の選手は、その作業の繰り返しを目にするたび…「自分は練習できない」と、諦めの境地になり寮へ戻ってしまう光景を度々目にした。


中には露骨に口にする選手もいた。

「アイツひとりの練習場じゃないのに…」


練習の虫…


カープ歴代、あそこまでバットを振った男はいない…


そう形容された、昭和最後のヒーロー…高橋慶彦氏。


いよいよ…彼の本音を聞き出す日が36年ぶりにやってきた。