「今日も、帰ってこないの?」
スマホを見たら、そんなメッセージが入っていた。
返信しないまま、そっと上着のポケットに仕舞う。
風が冷たくなってきたな。
ビルの隙間から覗く空を見上げながら、思った。
外で一夜を過ごすのには、耐えがたい季節だ。
今日はどこで長い夜をやり過ごそう。
漫画喫茶か、ファミレスか。
上着として羽織った、メンズサイズの大きめのパーカーのポケットに、右手を突っ込んでみる。
ジャリ、と音がしたのでそれらを目いっぱいすくって手のひらを開いてみたけれど、百円玉が数枚、転がっているだけだった。
これじゃあファミレスでドリンクバーすら頼めない。
財布はヒロトの家に置いてきたままだ。
いや、しかしその中にだって、使えるようなお金は入っていない。
つくづく自分の底辺な人生にため息をつきたくなる。
今夜くらい、と甘えてしまいそうだ。
暖かい布団の中で眠りたい。
ポケットの中のスマホをギュッと握りしめる。
だけど、帰りたくない。
帰れない。
そこは、私にとって、落ち着ける場所ではない。
母からもらった先ほどのメッセージ。
やっぱり返信はしない。
彼女のあれは、ただのパフォーマンスだ。
決して娘を心配してのことじゃない。
母として、娘を心配する母親を演じているだけなのだ。
世間を気にして。
夫を、気にして。
駅の方へ向かって歩みを進めてみる。
繁華の方へ行けば、誰か人が捕まるかもしれない。
もう家に帰らなくなって一年近い。
初めの頃は、街を彷徨いながら、色んな男の人に声をかけられた。
若い大学生風、いかにもガラの悪そうな若者、くたびれたおじさん。
中には、一緒にお茶をするだけでいいから、と言ってくれる人がいた。
そんな人たちは大概、人の良さそうなサラリーマン風のおじさんだ。
親くらいの年の。
仕事では疲れきっていて、家庭では家族にないがしろにされているのだろう。
現実から逃れたいのか、娘みたいな私と話をして、癒しを求めているみたいだった。
いわゆるナンパではあるけれど、そうやっていくつもの飢えと時間を食いつないできた。
今夜もそんな相手を見極める。
私には、こうして生きていくしか術はないのだ。
「ねぇ君、」
きた、と思う。
声色は、同年代のような張りのあるものじゃない。
きっとずいぶん年上のおじさんだ。
振り向くと、やっぱりそうだった。
だけど、人の良さそうな、とは少しかけ離れている。
「君、いくら?」
見定めるように、私の全身を舐め回す。
「は?」
何だか、気持ち悪い、この人。
こちらを見つめる表情は、ひどく性的だ。
見た目も、到底受け入れがたい。
背は低く、顔が大きい。
その顔は脂汗で湿っていて、鼻は低く、ひどく不恰好だ。
「いくら?って聞いてるの」
「私、そういうんじゃないんで」
これでもその手の誘いにだけは、乗らないと決めていた。
私は好きでもない男とホテルに行くような真似だけは絶対にしない。
こんな知りもしない、見た目も趣味じゃない気持ち悪いおじさんとなんて、絶対にごめんだ。
ふい、と顔を背けた。
しかしその腕を取られた。
「は?何言ってんの?そんな格好でこんな時間にこんなとこうろついてたら、誰だってそれ目的だって思っちゃうよ?」
言葉遣いもひどく気持ち悪い。
いや、それよりもっと、掴まれた腕が気持ち悪い。
こんなに涼しいのに、汗でべとついている。
ミニスカートを履いているのは、それしか持っていないからだ。
昨日飛び出したヒロトの家から、それを着てきたっきりだからだ。
「ちょっと、やめて」
手を引こうとした。
でも、思いの外、男の力は強い。
背は私とそんなに変わらないくせに、力が強すぎて振り払えない。
女に生まれたことをひどく後悔した。
もう何度目か分からないほどの、自分へのひどい嫌悪と後悔を、こんな時にも思い知らされる。
もう嫌だ。
こんな自分が。
女に生まれてきたことも、この世に生を受けたことでさえも。
受け入れがたい母親も、世間も、みんなみんな、失くなってしまえばいいのに。