エプロンをつけてベッドから立ち上がった時、ポケットの中でスマホがピコンと音を立てて震えた。
開いてみると、そこには、山下からのメッセージが入っていた。
"俺らがメシ行ったこと、もう中島にバレてもうてるで。うまくやれよー"
と、そこにはあった。
冷や汗が垂れるかと思った。
知っていたのだ、彼は。
だから、帰るなり、私をあんな風に強引に抱いた。
嫉妬、といえば聞こえはいいのかもしれない。
女としては、喜ばしいことなのかもしれない。
だけど、先程のやりとりは、会話になんかならないほど、矛先は怒りに向いていた。
あんな中島くん、初めて見た。
あんな風に声を荒げるところなんて、付き合ってこの方、一度も見たことがなかったのに。
私は、マンションのエントランスを出て、道路へと伸びる階段の一段目に腰かけていた。
俯きがちに顔を下げて、膝を抱える。
こんなこと、前にもあったな。
まだ、付き合う前、風邪を引いた中島くんに食材を届けた時。
そう、あれは中島くんのマンションだった。
私はまだ山下と付き合ってて、彼とは別れられないから、中島くんにはもう会えないと突き放した。
それなのに、心配で会いたくて、中島くんのマンションに行ったのだ。
だけど、酷いことを言って突き放した私は、そのままマンションから追い返されて。
こんな風にエントランスの階段で膝を抱えて泣いていた。
あの時は、中島くんが来てくれたんだった。
怒らせてるはずなのに、駅まで送ると言ってくれた。
中島くんは優しい人だ。
だけど、今日は、きっと来てくれない。
もう、どうしたらいいのか分からない。
着の身着のままで家から飛び出してきた。
所持しているものは、スマホだけだった。
つけたままのエプロンのポケットから、それを取り出す。
中島くんになんかかけられるはずがない。
私は、そっと指を動かし、スマホをタップした。
どうしてあの人に電話をかけてしまったのか、自分でも分からない。
もし中島くんにバレてしまったら、今度こそケンカじゃ済まなくなってしまうかもしれないのに。
でも、今、私を助けてくれる存在なのは、確実に、彼だけだった。
家から少し離れた公園で、彼を待った。
街灯に照らされてこちらに歩いてくる山下を見つけて、頬がホッと緩む。
少し息を切らしているような気がするのは、私の気のせいだろうか。
「マキ…」
「ごめん、こんな時間に呼び出して。まだ会社だった?」
「それはええけど、どないしたん?」
山下は、私が座るブランコの隣に、同じように腰掛けた。
「なに?その格好?」
「え?」
山下が言うので、自分の服装に目を落とした。
「エプロンなんかつけて、どないしたん?」
「変?」
「だってマキ、エプロンなんかつけたことなかったやん?どういう心境の変化?」
「別に、よくない?」
「エプロンつけたまま買い物来ました、って、サザエさんか!?」
「何それ?」
「だって、お魚咥えたどら猫、追っかけて♪って、」
「それは、裸足で駆けてっただけで、エプロンつけたままとは言ってないでしょ?」
「そうか?でも、サザエさんのイメージ、エプロンつけたまま近所にお買い物やろ?」
「そうだっけ?」
「そうやろ」
「もー、どうでもいいけどさ!」
私は、何だか恥ずかしくなって、エプロンのひもを外し、体から抜き取ると、小さく丸めて膝の上に置いた。
「まぁええけど、どないしたん?中島とケンカでもしたか?」
確信に触れられたことで、私は黙り込み、こくりと頷いた。
「まさか、昨日のことが原因とかじゃないやろな?」
「……」
何も言葉にしなかったけど、私の表情で分かったのだろう、山下は深くため息をついた。
「やけんうまくやれよ、って言うたやんかー!せっかく忠告してやったんに」
「だって…」
そのメッセージが原因だ、と言ってやりたくなる。
「颯ちゃん、知ってるくせに何も言わないから…」
「ふぅん、颯ちゃんねぇ?」
「あ…」
そう呼んでることがバレて、急に恥ずかしくなる。
「で?それでそんな格好で家飛び出してきたんか?」
「…うん」
「中島のことが好きなら、家帰ってちゃんと話せよ?こじらせる前にはよ仲直りしとけ」
「帰れない…」
「はぁ?」
「鍵、持たずに出てきちゃった。もし中島くん怒って帰っちゃってたら、家、入れない」
「はぁー!?」
「お財布も、何も持ってない。スマホしか」
「それ、中島知っとるんか?」
「…分からない」
「怒って帰ったりとかせんやろ?子供やないんやから。もしそうなら俺、中島のこと見損なうで?つーか、一緒には暮らしてへんの?」
こくん、と私はまた頷いた。
「俺から電話したろか?」
ぶんぶん、と頭を振る。
そんなことしたら、きっともっと中島くんを怒らせる。
「やったら、自分で電話してみろよ?」
「…無理」
「ならどないするん?」
「中島くんが、あんなに怒ってるとこ、初めて見た。私が、怒らせた」
「それって俺のせい?」
「ううん、違う。巻き込んでごめん。何でだろ、ごめん、ほんと。今日もこんな風に呼び出しちゃって。どうかしてた、私」
「それはええって言うてるやん」
山下の声が、一つ柔らかくなった気がして、ズキン、と胸の奥が疼く。
私はこの人の優しさを、利用した。
この優しさが、欲しかったんだ。
「マキ…」
今度はワントーン声色が落ちた気がして、隣の彼を見つめた。
夜の闇の中、真剣な顔をしているのが分かる。
「戻ってくるか?俺んとこ」
「え?」
お互いブランコに座ったまま、見つめ合う。
「俺んとこ、戻ってきても、ええんやで?」
「何、言ってるの?だって、奥さん…結婚するんでしょ?」
「俺は、マキがそうしたいって言うんやったら、何でも出来るで?」
「まさか…そんな、」
戻れるのだろうか。
あの頃に。
好きだった、確かに。いつも優しくて、笑顔が耐えなくて、尊敬も出来て。
そんな彼が好きだった。
山下が立ち上がる。
私が座るブランコの前に、彼がやってくる。
右手を差し出された。
迷っていると、有無を言わせず私の左腕を取って、山下が立ち上がらせた。
エプロンが足元に落ちる。
間近で、しばらく見つめ合った。
中島くんより背が高いな、そんなことを思った。
くいっとその左腕を引かれて、一連の動作のようにポン、と山下の胸の中に納めされた。
なぜか今でもしっくり来る、その場所。
「けんちゃん…」
「戻ってきたらいいやん、俺んとこ」
耳元でそう囁かれた声も、大きな彼の体も、スーツから漂う匂いも、全部、あの頃のままだった。