今朝から、なっちゃんとうまく会話することが出来なかった。
黎弥が、夏喜、と叫んだ電車の中で、私はびく、と体を震わせた。
今は、どんな顔をして会ったらいいのか分からない。
とっさに、昨日のことも嘘を付いてしまった。
傘を持っていた、と。
本当は、北人の傘に入れてもらって帰ったのに。
それから北人との間に起こったことも。
当然言えるわけがない。
だから、黎弥がいてくれてよかった。
黎弥がずいぶんその場を和ませてくれた。
放課後も、北人が誘ってくれたおかげで、なっちゃんと二人帰れない口実ができた。
なっちゃんがいる目の前で誘われたことで、わざわざ断りを入れる必要もなかった。
健二郎先輩に会いたいのはもちろんだけど、そんな理由もあって、私には都合がよかった。
体育館に行くと、懐かしい香りに包まれた。
バスケットボールのゴム製の独特なにおい、バッシュが擦れるキュッて音。
そして何より、健二郎先輩がそこにいる空間。
「ナイッシュー」
って、仲間にかける声が先輩だ。
口を大きく開けて笑う姿も懐かしい。
「俺も行ってくるわ」
隣に立っていた北人が、子供みたいな顔をして勢いよく駆けて行った。
健二郎先輩に声をかけている。
先輩も気が付いたらしく、手を止めていくつか会話を交わした後、北人もそこに交じり、一緒にミニゲームを楽しんでいた。
かっこいいなぁ、と思う。
健二郎先輩は、その場にいる人の空気を一瞬にして変えてしまう。
みんなが笑顔になれる。
そんなところが魅力だと思う。
バスケをしている姿は、何よりもかっこよくて素敵だ。
好きだったな、先輩のこと、と昔を思い出してしまう。
それでも今は、こんなにもただの憧れに変わり、気持ちを吹っ切ることが出来た。
いつかは、こうして北人のことも、思い出に変わる日が来るのだろうか。
でも…
先輩は、はっきりと私のことを振ってくれた。
彼女がいるから、とチョコさえも受け取らずに、ごめん、と言われた。
北人は、そうじゃない。
かつて好きだった人に、俺も好きだ、と言われて、簡単に思い出になんて変えられない。
今だって好きな気持ちが溢れてきて、どうしようもなくなっているのに。
北人がスリーポイントシュートを決める。
ボールを見つめる真剣な顔が、どんな時よりも一番好きだった。
そして、それが決まった時に見える、嬉しそうな笑顔が、もっと。
その笑顔で、北人がこちらを振り向いた。
目が合って、ドキン、と心臓が跳ねる。
健二郎先輩を見ていたはずなのに、いつの間にか私は、北人ばっかりを目で追っていたのだ。
「希子ちゃん」
部室で探し物をしていると、健二郎先輩に声をかけられた。
「先輩、どうしたんですか?もう練習しないんですか?」
「うん、ちょっと休憩。もう高校生の体力にはついていけんけん」
「あはは、一個しか変わんないじゃないですか」
「運動、全くしとらんけんね、全然違うよ。希子ちゃんは?引退したとに、まだ仕事しよると?」
「あ、スコアブックとビブス、足らんち言うけん」
「仕事熱心やね。そんなん後輩にやらせればいいとに」
「動いてた方が、性に合ってるんで」
「ふぅん。でも、ちょっと休憩せん?」
はい、と健二郎先輩は両手に持っていた缶のジュースの片方を、私の方に掲げた。
「え、でも、」
これを持っていかないと、と私は自分の手中にあるビブスに目線を落とす。
「あぁ、それ、大丈夫大丈夫、全然急いどらんけん。はい」
先輩は、コン、と部室の真ん中に備え付けられているコンクリート質のベンチにそれを置いた。
「いいんですか?」
ベンチに置かれた缶ジュースを見つめる。
先輩が好きだった、炭酸入りのエナジードリンクだ。
「もちろん。俺のおごり」
先輩は、ベンチに座りながらそう言った。
わたしも笑って、そこに腰かける。
背もたれがないベンチ、先輩の向く方とは逆に、互い違いに座るようにして。
「ごちそうさまです」
プシュッとプルタブを引きながら、言った。
なっちゃんとは別の意味で大きな先輩の体。
それを隣に感じながら。
「希子ちゃんさぁ、彼氏出来た?」
「え、何でですか?いきなり。そんなの、いませんけど」
「そうなの?じゃあ、好きな人は?」
「……」
昔好きだった人に恋愛事情を突っ込まれて、どう答えていいのか分からなくなる。
これは、どういった意味の質問なのだろう。
「北人は?付き合っとらんと?」
北人の名前が出てきて、ドキ、とする。
「何で北人ですか?」
「好きっちゃないと?北人のこと」
「それは…」
「北人の方も、好きやろ?希子ちゃんのこと。俺は、てっきり二人はもう付き合っとるんやと思っとったっちゃけど」
「確かに、そう言われることは、よくありましたけど、…違います」
「何で?北人はずっと希子ちゃんのこと好きやったやん?希子ちゃんは?」
「北人のことは好きでした。でも、今は違います。すれ違っちゃったんです、私たち」
「すれ違ったって?何で?」
「好きだったけど、告白出来なくて、私が他の人に目移りしちゃったんです」
「告白?何で出来んかったと?」
「だって、もし告白して振られたら、それまでの関係もなくなっちゃうし、友達でもいられんくなって、気まずいじゃないですか?」
「俺にはあんなに一生懸命好きだって言ってきた希子ちゃんが?」
「え、先輩、覚えてたんですか?」
「当たり前やん。覚えとるよ、嬉しかったし」
「えー、マジですか?でも先輩ガッツリ振ったじゃないですかぁ?」
「そりゃああん時は彼女おったし、ごめん、って言ったけど、でも希子ちゃんに告白されて嬉しくないわけないやん?」
「先輩、うますぎ」
あの史上最強に恥ずかしい告白を今思い出されて頭を抱える。
「北人にもあんな風に正面から好きです、って言えばよかったとに」
「だって、先輩には当たって砕けろ精神で、とにかく気持ちを伝えたいってだけだったし、むしろうまくいくわけないって思ってたし」
「北人にはそれが出来んかったわけね。まぁ、それは置いといて、じゃあ今は、その新しい人?が好きと?」
「…はい」
「嘘やん、希子ちゃん、北人のこと見つめる目、好きな人を見る女の子の顔しとったよ?」
「え…」
「めっちゃ愛しそうにバスケしよるとこ見よったやん?」
「恥ずかしいです。そんなの見てたんですか?」
「うん、かわいいなぁって思って」
「もー、先輩、なんか口軽くなりました?」
「希子ちゃんにはさぁ、ちょっと悪かったなぁって思っとるとよ」
「え?何でですか?」
「あん時、チョコすらも受け取らんくて。申し訳なかったなぁ、って。手作りやったやろ?あれ。後から彼女に言ったらさぁ、そんなん、受け取ってやればよかったとに、とか言われて。そんくらいでやきもちとか妬かんし、って」
「あはは、そうだったんですね?」
ずいぶん後から知ったけど、健二郎先輩の彼女は、同じ高校の先輩と同級生で、すごく美人でスタイルがよくて、性格もいいんだと評判の、女の人だった。
「俺の気持ちも知らんでなぁ?」
噂でだけど、今でも付き合っているんだと聞いている。
きっとお似合いの二人なんだろう。
やっぱり素敵だな、って思う。
「先輩…実は、最近北人も私のこと好きでいてくれたってことが、分かって」
「うん」
「どうしたらいいか分かりません」
「今さら、とか思っとる?」
「…はい」
「そんなん、遅いとか、関係ないとよ?今希子ちゃんが好きだって思う方を選んだらいいやん。まだ間に合うよ?」
「先輩、やっぱりかっこいいですね?」
「そう?じゃあ、俺と付き合う?」
「付き合いません」
隣にある、健二郎先輩の顔を覗き込んで、言った。
含みを込めた笑いから、先輩が大口を開けて笑い出す。
「わはは、やっぱり希子ちゃん正直やなぁ、そういうとこ、いいと思うよ?俺好きやなぁ」
「ありがとうございます。先輩、ついでにもう一個、聞いていいですか?」
「ん?なん?」
「大事にしたいものが、もし、二つあったら、先輩だったらどっち選びますか?」
「大事なもんって?」
「例えば、恋愛と、…友情とか」
先輩は一瞬だけ考えるそぶりを見せたけれど、すぐにその瞳はまっすぐ真剣なものになった。
「そんなん簡単やん。どっちも選んだらいい」
「どっちも?」
「うん。どっちかだけしか選んだらいかんとかないやん?俺は、好きなもんどっちも掴みに行く」
「やっぱり先輩に聞いてよかった。ありがとうございます」
「うん。希子ちゃん頑張ってな?」
「はい」
ちょうどその時、先輩が飲んでいた缶の中身がなくなったようだ。
彼はそれを思いっきり傾けて飲み干した。
「よし、じゃあそろそろ行こか?」
「はい」
私はひとつ、決意を胸に、立ち上がった。