佐伯駅17:00発のJR日豊本線に乗り、降りたのは臼杵(うすき)駅。
40分間の乗車時間でした。
駅名標がなんともかわいらしい![ハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/081.png)
![ハート](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/081.png)
駅から徒歩15分弱、主人がいる臼杵市観光交流プラザ近くに到着。
途中道を間違えて思ったより時間が掛かった(Googleマップをちゃんと見ていなかった
)。
![アセアセ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/100.png)
先に臼杵市観光交流プラザに着いていた主人、臼杵城の続日本100名城スタンプを押していました![下矢印](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/121.png)
![下矢印](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/121.png)
交流プラザの開館は18:00までだったので、急いで向かったのでした(主人が)![あせる](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/029.gif)
![あせる](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/029.gif)
臼杵市観光交流プラザ
〒875-0041 大分県臼杵市臼杵100−2
開館 9:00~18:00
休館日なし
マストのことが済んだので後は気が向くままに廻るだけ。
こちらのお城はもう見えているので気が楽でした![OK](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/119.png)
![OK](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/119.png)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190602/13/0314orange/b1/e3/j/o1080081014420617635.jpg?caw=800)
臼杵城は戦国時代、大友宗麟により臼杵城の前身となる丹生島城が築かれ、大友氏の拠点となりました。
江戸時代には臼杵藩の藩庁が置かれました。
丹生島は北、南、東を海に囲まれ、西は干潮時に現れる干潟の陸地で繋がるのみという天然の要害をなしていたそうですが、現在は埋め立てられ陸続きになっています。
江戸時代には稲葉貞通の居城となり、明治維新まで稲葉氏15代が藩主を務めました。
古橋
江戸時代から残る橋だそう。
普通に利用されているのがすごいですね~
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190602/13/0314orange/c1/2b/j/o1080081014420617647.jpg?caw=800)
古橋口から登城します。
大友氏の時代から使われていたそうで、鎧坂というそう。
白い土塀が続き、道は整備され歩きやすいです。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20190602/13/0314orange/b1/99/j/o1080081014420617683.jpg?caw=800)
臼杵護国神社
もともとは臼杵藩主の稲葉家代々を祀る稲葉神社であったものを、戦没者などを祀る旧招魂社と合併し、名称も臼杵護国神社となったそうです。
臼杵城は私ももちろん行きたかったですが、主人が特に行きたいといっていたお城でした。
と言うのも、大友宗麟が特に好きだからなんですけれどね。
主人は武将の中では片倉景綱や大友宗麟が好きなんですが、全然違う2人なような~
大友宗麟はキリシタン大名だったこともあり、城下にはキリスト教の施設が多く、城内にはなんと礼拝堂もあったそうです。
こちらは、久家(くげ)の大蔵。
江戸時代後期頃建築され、酒の貯蔵庫として利用されていた蔵で、老朽化にともない取り壊される予定だったものを、平成12年5月に壁面にポルトガルの著名なアズレージョ作家・ロジェリオ・リベイロ氏による伝統的装飾絵タイル・アズレージョが施され、白壁に映える青色が美しい南蛮文化交流施設として生まれ変わったそうです。
タイル絵が素敵でした![キラキラ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/088.png)
![キラキラ](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/088.png)
迷路のような道が続き、風情ある佇まいが残る街並みでした。
こちらは稲葉家土蔵。
江戸時代臼杵藩主であった稲葉家の分家の蔵で、現在は無料休憩所となっています。
遅かったので閉まっていましたが![あせる](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/029.gif)
![あせる](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/029.gif)
臼杵の城下町を1時間程観光し、駅に戻って予約していたホテルがある大分駅に向かいました。
臼杵市のマンホール蓋の撮影をしました。
こちらは道標になっている汚水マンホール蓋で、名物のフグがデザインされていました。
食べたかったなあ~![ウインク](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/004.png)
![ウインク](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char3/004.png)
こちらのマンホール蓋には、西暦1600年に臼杵湾に漂着したオランダ船リーフデ号と、市の木カボスがデザインされていました。
日本到達の2年前に本国オランダのロッテルダムを出航したリーフデ号。
初めは5隻の船団でしたが、マゼラン海峡通過後の太平洋で悪天候などにより離散。
出航時の乗組員は110人ほどいたが、日本に到達した時の生存者はわずかに24名となり、立つことが出来たのは6人のみで、重傷者が多く翌日に3人が死亡したそう。また翌年中までに更に7人が死亡し、最終的な生存者は14人となったそうです。
生存者の中には江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムス(三浦按針)も含まれていました。
ヤン・ヨーステンは現在の八重洲に屋敷を設け、八重洲の地名の由来となった人物と言うのは、初めて勤めた職場が八重洲だったので知ってました。