松山城の本丸は
市内の真ん中にある勝山にあって
どこからでもお城がみえ
松山の象徴的な存在
 
山裾にある三の丸は
藩主の住まいや上級家臣の家があったところで
今もお堀が残っていて
とても美しい憩いの場所です
 
その近くにある
阿沼美神社(あぬみ)へお参りしました
(松山市味酒町3-1-1)

 

 

神祇式神名帳に
伊予国温泉郡の名神大社として列せられる
格式高い古社です(平田町にも論社あり)
 
ここにお参りした理由は・・
 
江戸時代
幕府は慶事の能楽に
町民の参観も許す「町入能」を行い
松山城下でも幾度もひらかれました
 
その影響もあって
1700年代松山城下の社寺では
大衆向けの辻能(つじのう)行われ
宝暦元年(1751)以降は
大阪出身の掘井仙助座が人気を集め
「仙助能」ブームが起き
阿沼美神社も会場になったそうです
 
今もそのなごりはあるでしょうか・・・
 
境内は広くて奥に社殿がありました
 
主祭神は
味耳命(うましみみのみこと)
大山積命(おほやまつみのみこと)

 

 
昭和20年の大空襲で焼失したため
社殿は再建された建物で
往古の面影はありませんでした
 
一千年祭紀の大きな記念碑あり

 

 

残念ながら
「辻能」については何も見当たらず・・
 
 
10月の例祭には
八角(村の神輿)と四角(町の神輿)が
鉢合わせ(ぶつけ合い)する
喧嘩神輿があります
 
神輿は、神官大山為起(1651~1713年)が17世紀末の元禄年間に京都で作らせたといわれ、18世紀末の松山藩の記録に「味酒の神輿三体、八角は大山積大明神、四角は水神、チキは雷神也と云ふ。」とあります。(データベース愛媛の記憶より)
 
辻能が盛んになったのは
宝暦元年(1751)以降ですから
喧嘩神輿の始まりとも重なります
 
ここは城下の人々が集まる場所だったのでしょう
 
神社の由来は・・
この地方の総鎮守として、往古勝山の峰(現在の城山)に鎮座。
(主祭神の味耳命の後裔である)久米氏の氏神で、延喜式内名神大社。その後、越智氏が国司となり、越智氏の氏神も祀る。慶長年間加藤嘉明により現在地に移遷される。味酒神社と呼ばれていたこともある。藩制時代、松山藩の崇敬社であった。旧県社。それぞれの時代の統治者の尊崇をうける。(神社本庁より)
 
境内社は
伊豫(余)夷子神社・稲荷神社・金刀比羅神社・味酒天満神社・勝山八幡神社
ここに伝承がかかれていました
 
◯勝山八幡神社の伝承
松山の八社八幡の八番社である。『予陽郡郷俚諺集』によると、松前城主加藤嘉明が勝山(今の松山城)に築城を計画し、普請奉行の足立重信、山下八兵衛が調査に来たという。そのとき、山上に社があり、近くで薪を拾っていた老人に、この宮は何の宮かと尋ねると、老人は「勝山八幡」と言おうとして「勝たずの八幡」と答えた。敵が城に向かって勝たずならば吉相、それに往古よりこの山に鎮座している御神であり勿体ないとして、北の麓に遷して奉ったという。また、西の尾根にも社があり、老夫に尋ねると、越智郡の三島より勧請した三島明神であるという。これは吉祥であるとして、西の山の下味酒へ遷座して祀った。のちに味酒大明神と呼ばれ、味酒神社と改称された。現在の阿沼美神社である。
加藤嘉明の後を受けた第二代松山城主蒲生忠知は、勝山八幡宮を三宝寺とともに今市町に移したという。そして、明治8年(1975)勝山八幡神社は、味酒神社(阿沼美神社)の末社としてその境内に移ったと言われる。(松山市教育委員会)
 

 
また境内には
芭蕉・正岡子規・栗田樗堂の句碑がありました
 
春もやゝけしきとゝのふ月と梅(芭蕉)
名月や伊豫の松山一万戸(正岡子規)
さまさまの事おもひ出す桜かな(芭蕉)
浮雲やまた降雪の少しつゝ(栗田樗堂)
 
寛政12年(1800)
栗田樗堂が52歳の時に造った草庵が
すぐ近くにあって
今は庚申庵史跡庭園になっています
 
見どころのとても多い神社でした
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〇能楽協会の「能楽を旅する」より
伊予松山藩時代の松山城には二の丸と三の丸に能舞台が建てられ、藩の儀式や祝い事では能が演じられました。
 
江戸幕府が慶事の際に町人たちに特別参観を許した「町入能(まちいりのう)」を行ったことにならい、松山藩でも町入能がいくどとなく催されました。宝暦9年(1759)8月に三の丸で行われた演能では、5日間のうち2日間を町入能とし、前場(前半)が終わってシテなどがいったん退場する中入では料理・赤飯・餅・御神酒が町人たちにも配られました。各日とも能五番、狂言二番が演じられたため、藩お抱えの能楽師だけでは足りず、町人が笛や鼓、地謡(コーラスグループ)、シテツレ(主人公の助演者)を手伝うなどして賑わっていました。
松山城下には、町入能の影響もあり、元禄年間の1700年頃から「辻能(つじのう)」が現れました。これは、町の辻や寺社で行われる大衆向けの趣向を凝らした能で、とくに宝暦元年(1751)以降は、大阪出身の掘井仙助座が人気を集め「仙助能」ブームが起きました。
仙助能の巡業は数多く行われ、2週間以上に及ぶ興行もあったと伝えられています。場所は現在の阿沼美神社など、野天に小屋掛けした会場で、一座15〜16人が1日に能五番と狂言三〜四番を演じ、ひとりの役者が複数の役を勤めました。
演目は能「石橋」「道成寺」などの大曲もありました。仙助座は代々「仙助」名を継ぎ、松山城下の巡業は5〜7代と長くにわたって行われていきました。