- 前ページ
- 次ページ
「古代の神社と神職 神をまつる人々」
著者 加瀬直弥
吉川弘文館歴史文化ライブラリー 2018年
古代の神社の様子は?
神職の様子は?
そんなことを知りたくて読みました
ただあくまでも
記録に残る大きな神社や
その神職のことしか書かれていません
(歴史は記述)
なので
もやもや感は残りますが
歴史的な出来事が起こると
朝廷が神社を通じて
行いたかったことなどの一面がわかりました
以下、備忘録ですので
読み飛ばしてください
■古代神社の立地と社殿の役割
伊勢大神宮の立地
古代の神社は地形上の縁(へり)に立地が多い
天照大神は「朝日の近づいてくるところ、夕日が近づいてくるところ、波音が聞こえないところ、風の音が聞こえないところ、弓・矢・鞆の音が聞こえないところで、神の意により鎮まるところだ」と喜んだ
山がちで内陸で森の中で人の領域から離れたところという条件
神への贈り物としての社殿
ただ大事なのは神の為の領域であって社殿があるかどうかは問題ではない
伊勢大神宮の式年遷宮は持統天皇4年(690)から始まる
〇朝廷による社殿造営
斉明天皇5年(659)出雲国造に命じて「厳神之宮(いかしかみのみや)を作らせた
天智天皇在位中(663-672)に常陸国の鹿島神宮を作らせる(常陸国風土記)
鹿島神宮は朝廷から使を現地に遣わせて管理させている 出雲国は国造に任せている 共に後々まで続いている
天武天皇10年(681)に天社・国社の神の宮を造営せよとの詔(日本書紀)
天平9年の神社造営(続日本紀は藤原四兄弟も没した疱瘡の影響
神社を作り改めるための正税(国司が徴収した稲の拠出量=国司からみたら財政負担の量)が記載され、次の命令は天平神護元年(765)で恵美押勝の乱の終結の翌年で国家的大事に伴う対処
慶雲3年(706)大宝律令で神社の清掃に関する命令あり
神亀2年(725)にも下される 国司に清掃に関する責任を負わせている
宝亀8年(777)同様の命令
朝廷が社殿造営や神社維持の為に担い手になったり経済的な負担をするのはまれ 実質的には神社の現場で対処
大同4年(809)神社修造の詔 国司の長官が担当して造営shi
財源は神戸のある神社はその神税、そうでないところは正税
弘仁2年(811)神戸のある神社が対象
弘仁3年(812)神戸のない神社が対象 神社造営を神職に担わす 但し風や火の大破の場合は朝廷の中枢が検討する どちらも現場が責任者
『皇太神宮儀式帳(延暦23年・804)』によると,
徐々に社殿を有する神社が増えていき、奈良時代後期から平安時代初期には一般化した(8世紀後半~9世紀初頭)
弘仁13年 封のない神社は作るための財源がないとの報告
貞観10年(868)には神社の祭神の系譜に基づく修造のしくみを全国に拡大
延長4年(926)神職の怠慢が糾弾され朝廷差配の造営は10年はしない 神戸の有無を問わず神職に責任を負わせている
■古代神職の職掌
祝部(ほふりべ)は祝・禰宜・神主も含む神職の総称
祝(はふり):一般的な神社では基本祝を置く
禰宜:祝よりも権威ある存在 課役(調・庸)は免除(令集解) 免税特権は神社維持の負担をさせてもよいという根拠かも
祈年祭(毎年2月の穀物の災いがおきないように神祇官で天神地祇を全て祀る(令集解) 実際の所平安中期で全国で2861所の神社(延喜式) 延暦17年(798)以前だと京の神祇官が用意した幣帛を、全国の神社の祝部が受け取りに行く
■氏族のまつりと神主
古代の神社は朝廷とは関係しないまつりの場でもあった
相嘗祭で行われているのは氏族のまつりである
神主が担い手 神職はまつりを行うことが決まっていた氏族で継承していく職 氏上=氏宗・氏長で氏族の長で朝廷が把握しており、氏全体の命令を受ける役(令義解 神主は神の(まつり)を主る(つかさどる)責任者 朝廷の中で神主の位置づけは伝統的に確立していて、令によって制度が整備された祝部とは出発点が違う
■神宮司とは
神宮司は神社の中核となる職 孝徳天皇時代(645-54)にさまざまの宮内の行政を行うのを発展 平安時代中期以降の神宮司の多くは大中臣氏の同系の氏族 交通の要衝地に朝廷の影響力を及ぼしたかった
斎衡3年(856)把笏を認める基準が容認の基準は従三位以上の神階を奉られている者 神職が把笏できる神社は増えたのは当時の神階重視の時流に後押しされた結果
仁寿年間(851-53)には広く天下諸神に対して、無位の場合、原則正六位上を奉った 文徳天皇を神に守護してもらいたいと藤原良房の意向も感じられる
延暦17年(798)祈年祭の幣帛の用意が対象神社の国の担当になり(類聚国史) ただし畿内とそれ以外の七道諸国の一部神社は従来通り神祇官が担当し祝部が宮中に幣帛をとりにいった(延喜式) これにより多くの神社が京の朝廷との数少ない接点を失った
貞観10年(869)神職把笏を抑制 祝がまつりをつかさどり禰宜はつとめがない
■古代神社の女性神職
伊勢大神宮の斎王 賀茂の斎王
宇佐神宮の大神杜女(おおがのもりめ)は天平20年(748)位階の授与
■神近くに仕える担い手の女性とその制度
大物忌 賀茂両社の忌子(いみこ) 厳島神社の内侍
■神社と神職にとっての転機
奈良時代末期から平安時代初期にかけて神職は大きく変化した 神宮司や神主は任期制 任用の条件として官僚的な人格を求められる
称徳天皇崩御から光仁天皇即位までの出来事に、朝廷は神の助けがあったと認識 宝亀年間におきた大きな変化は、本来朝廷が行うべき神社の職掌を神職にまかせればよいという方向性が定まったこと
神職制度を朝廷が整備したことで各地の神社に共通性が生れた ただ地域に根差した神にそれぞれの神職が個々にむきあうというあり方は変わらなかった
12時から
広島春節祭に
子ども日本舞踊塾が出るので
観に行きました
舞台は広島PARCO横の
アリスガーデン
屋根のない外ステージです
晴れてはいるものの
寒くて寒くて
でも子どもたち大頑張り
お母さん、先生、裏方さんお疲れ様です
あぁよかったよかったと
帰宅して
珈琲飲んで暖まりながら
本を読んでいたら
あれあれ
雪がまた降ってきた・・
今日はポイント5倍デー
スーパーへお買い物へいかねばと
車を出したら
道路が白くなってました
お買い物した後で
宅急便を送ったりして疲れたので
外食にしようと
ちょっとだけ郊外へ行ってみたら
わぉ!
帰り道
市電の架線まで白く積もってて
なんだか見たことない景色
電車も雪を被ってて
平和大通りの
樹々も道路も雪景色
そして
降り続いた雪も
8時頃にはやみましたが
気温はマイナス1度です
おぉ寒い
後でわかったのですが
広島市中区の最低気温は
マイナス2.9度だったとか
あれ
こんな手湯あったかな
温泉に到着です
開湯は651年
乙巳の変の後の孝徳天皇の時代
法道仙人が見つけたとのこと
中から
風呂おけのカランという音や
男湯からでしょう
元気な男の子の声も響いていました
ここにも
神楽殿があるのですね
確か
小川に沿ったこの坂道に
石見国国司となった
柿本人麻呂ゆかりの碑があったはず
合ってました
奥さんの依羅娘子(よさみのおとめ)と
ここ有福温泉に来たと
記録があるようです
今回は奥まで行かず
この赤い実はなんだろう
降りて行くと
数人の大学生らしい青年と
すれ違いました
合宿かな?
楽しそうです
小川には
温泉のお湯が流れ出てて
軽く蒸気をあげていました
福々顔のトレードマーク
三階旅館という名の
三階建ての建物も覚えてました
有福温泉でした
まずは
浜田市美又温泉へ
このあたりは
雪はほとんどなしでした
ここの足湯に
浸かりたかったみたいです
ここの温泉街
3、4年ぶり
なんとなく風情があります
みぞれが雨っぽくなってきました
この建物は美又薬師神社で
こちらは
前に来て印象的だった
みくに旅館さん
それにしても
傘を持たずに歩いたので
ぬれてしまい
すごく寒くなってきて
急いで
足湯まで戻りました
お湯加減は
いつもよりぬるめだったそうです
そして
美又温泉国民保養センターに行き
お水を買いました
ph8.2です
この建物は3月に閉館し
10月になったら
奥に新築される新しい温泉施設が
オープンするそうです
発表会が終わると
実はもうひとつ
お仕事があります
それは
袴の片付け
子どもたちが使ったもので
サイズは55cm〜82cmくらい
成長が早いので
数ヶ月で短くなることもあり
今回も
10月の最初の舞台の後
3か月経っての1月発表会に
数人の丈が短くなっていました
そこで
一番大きい子に大きい袴を用意し
その子が使ってた袴を
次に大きい子にと
順々にみんなでまわしあいました
(お母さんたちの連携プレー)
でもこの調子だと
買い足さないといけないなぁ
助成金は減る一方なので
やりくりせねば・・
軽く陰干しした後
片付けながら
サイズ帳に記録していき
折を整えて片付け完了です
※これは日舞の先生からお借りした袴
(クリーニング後)
ところで
やっと書類提出が終わりました
ページ数は
あれやこれやで約200ページの大仕事
黒のプリンターインクが
空っぽになりました
そして
大仕事が終わったご褒美に
久しぶりに図書館へ行きました
しばらくどっぷり読書できたらいいな














































