関東の長雨が気になりつつ
広島はというと
あまり雨が降っていません

それでも
日照時間は例年の半分だそうで
曇りがちではあります

長く咲いていたブーゲンビリアも
だいぶ散ってしまいました

掃き集めても
なんとなく華かでかわいいです



先々週の

お茶のお稽古の時

いただいて帰った紅葵(ベニアオイ)


ハイビスカスの仲間と聞きました


長持ちしてて

この頃は花の色が変わり

中に黒い種を含んでいます



昨日は
所属する団体の例会でした

いつもヘルプを早めに切り上げて
参加するので
手には洗剤の匂いがプンプン(笑)

たいしたことはないのですが
例会では少しお役目もあるので
終わったらほっとします

毎回講演があるのですが
昨日は周防大島のハワイ移民についてでした
特に
南西にある小さな属島の沖家室島について

民俗学者の宮本常一も
周防大島の出身ですが
その代表的な著書
『忘れられた日本人』の中でも
ハワイ移民となった
沖家室島の人々に触れています

もう一度読んでみよう
と思いました



NHK
「タモリ・山中伸弥の!?
 人類史3.0 人間とは何者か?」を見ました

DNA分析の結果
人類の系統図が書き変わろうとしていると

つまり人類は交雑を繰り返し
系統図のように他の種は絶えたのではなく
現代人に遺伝子を残していると・・

ところで番組中に
司会のMISIAが
古代人の物語『大地の子エイラ』を紹介

もう絶版でしたが
図書館にあったので
ちょっと読んで見ました
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ある日大地震が起き
少女は家族を失い
食べることもできずライオンに襲われかけ
命の危機に・・
そこに
ある部族の一団が通りかかります

少女は青い目で手足の長く言語を使います
一方の部族の人々は
おでこが狭く後頭部が突き出し腕が湾曲し
言語と身振り手振りで表現します

人類の系統図でいうと
おそらく違う人類

少女は部族の長老に受け入られ
エイラと名付けられ
部族の一員となります

作者のジーン・アウルは
古代人の生活を描きます

新しい洞窟を見つけた時の儀式
子どものトーテム(守神)を決める様子
男と女の役割の違い
種火を持ち歩くこと
動物の皮で作った鍋
家族ごとにある炉辺

まるで見てきたようです

上中下の3部構成
これから
少女エイラはどう成長し
自分とは違う部数とどう関わっていくのか

それが人類の進化の歩みなのか
系統図との関係は?

続きはまた後日読みます




午前1時頃

横になったものの眠れないでいたら

ゴゴゴという音が

遠くから聞こえました

 

雨雲レーダーを見ると

ちょうど広島市の上が赤くなって

北東の方角に雲が進んでいます

 

リビングの窓を開けると

けっこう強い雨と時々稲光

でも1時間ほどでやみました

 

午前4時頃にも

雷と大雨でしたが

これもすぐに抜けてくれました

 

さて

自転車を使う頻度は

それほど多くないのですが

ないと困る存在

 

先日

空気入れで前輪に

ぐいぐい空気をいれたら

あれ?変な手ごたえがあって

ぷしゅっとタイヤの空気が抜けていきました

 

あちゃー

 

自転車屋さんに持って行ったら

空気入れ部分の

パッキングがダメになってるとのこと

 

すぐに直してもらって

乗って帰りました

 

タイヤに空気満タン

すいすい帰れました

 

広島市の川沿いの街並み

 

ずっと雨が降らなかった広島ですが
今朝がたは大雨で雷も鳴りました

関東は数週間も雨模様
スーパーエルニーニョ現象の影響で
海上の水蒸気が増え
偏西風が蛇行し
日本は暑く強い雨も多くなるとか・・

さて
昨日のお稽古は
急に用事が入り
そちらを優先したので
行くのが遅くなってしまい

茶花の名前も聞かずでした



さて

厳島神社献茶式のお茶券を

見せていただきました


秋、嚴島神社能舞台で

家元がお手前されるのを拝見できる会

裏千家・表千家が隔年で交互に

神前に献茶します


今年は裏千家の坐忘斎千宗室さん

第16代家元で

奥様は三笠宮家の第二王女容子さんですね


献茶式(9:30-10:30)の後は

拝服席(本殿祓殿)

薄茶席(朝座屋)

濃茶席(岩惣の管弦の間)

をまわり点心を岩惣にていただくそうです


1万◯千円とか

ちょっとお高いですね





昨日
栃の木の下を通りかかったら



あっ木の実がいっぱい


木の下に

自転車を停めている

少し年配の女性がおられたので

話しかけたら


「立ってるだけで

 どんどん実が降ってくるのよ

 友達が新しい家を買ったので

 分けてあげようと拾ってる」と


ちょうどいい時分に

通りかかったようです


まずは

ツヤツヤの実を5個ほど拾って

スーパーへお買い物に行き



スーパーの帰りにも寄ってみたら

あらほんとまた増えてる


殻付きのも5個ほど拾いました


私の友人は

掌に数個握って

クルミのようにクルクルまわして

ぼけ防止にすると言います


殻付きのだと

植木鉢に植えると

芽が出るのでしょうか・・


木の実を見ると

拾いたくなるのは

採取生活していた古代からの

遺伝子なんでしょうか



昨日は
所属する団体の人と会って
近々印刷する出版物の校正をしました

20ページほどの小冊子です

以前は
公民館の会議室を借りてましたが
この頃は
大きなショッピングモールの
フードコートを利用してます

無料だし
席が多くて
食事時をずらせば
ゆっくりできるし
何か飲み物などもすぐ買える

今回は電車に乗って
集まりやすいゆめタウン広島にしました

ゆめタウンというのは
広島資本の大きなスーパーです

数時間かけてチェックして
第二校が終わりました
(ほっ)

そうそう今回
集まったのは主婦
世代は違いますが
この後おしゃべりがはずんで
5時頃までいました
(あちこちの分野に話題が飛ぶのもおもしろく)

後は委員全員で集まって
最終の全体チェックして
印刷や部数など決めます

出版まであともうひと息!



 

図書館で

『倉橋町史』を見つけた続きです


備忘録なので

スルーしてくださいませ

 

天平8年(736)

遣新羅使が

倉橋島に立ち寄った時の和歌が

『万葉集』巻15にあります

 

遣新羅使というのは

日本から新羅へ派遣された公の外交使節

 

記録に明らかな使節は

571年(欽明32)~727年(神亀4)

 

ただ新羅と日本との関係は

ちょっと複雑で

 

両国の利害の一致する時期は友好的ですが

互いに強硬的な時期もあります

それでも

遣新羅使による文物の交流は

日本の政治・制度・文化に与えた影響は

大きいものがあります

 

しかし

倉橋島に寄った天平8年は

外交問題を抱えている時期でした

 

またこの使節は

ルートの記録を残す唯一の遣新羅使でした

 

【天平8年のルート】

難波の津を船出した後、瀬戸内海を進み、途中風早浦(現東広島市安芸津)、長門(倉橋島)、分間浦(現中津市)などを経由し筑紫舘に到った。その後、韓亭(唐泊、能許亭、現能古島)、引津亭(現糸島市)から狛嶋亭(現神集島)に渡り、壱岐島、浅茅浦、竹敷浦(ともに現対馬市)を経て新羅へと向かっている(wikiより)

 

【『万葉集』巻十五より】

安芸国長門島舶泊磯辺作歌五首

 

石走る瀧もとどろに鳴く蝉の

声をし聞けば都し思ほゆ(3617)

 

山川の清き川瀬に遊べども

奈良の都は忘れかねつも(3618)

 

礒の間ゆたぎつ山川絶えずあらば

またも相見む秋かたまけて(3619)

 

恋繁み慰めかねてひぐらしの

鳴く島蔭に廬りするかも(3620)

 

我が命を長門の島の小松原

幾代を経てか神さびわたる(3621)

 

従長門浦舶出之夜、仰観月光作歌三首

 

月読みの光りを清み夕なぎに

水手の声呼び浦廻漕ぐかも(3622)

 

山の端に月傾けば漁りする

海人の燈火沖になづさふ(3623)

 

我れのみや夜船は漕ぐと思へれば

沖辺の方に楫の音すなり(3624)

 

【年表】

562年

伽耶国が新羅に滅ぼされてから

任那をめぐる外交折衝から

日本は新羅に対して強硬策をとる

 

646年(大化2)

孝徳朝の政権はそれまでの対新羅外交を変更

任那の調も廃する

 

663年

日本は白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に破れ

新羅と国交断絶

百済国も滅亡

 

644年から668年まで

唐は3度高句麗出兵し高句麗は滅亡

 

676年

新羅は半島統一するが

唐からの圧迫を受ける

 

668年(天智7)

唐が日本と新羅の共通の敵となり

復交すると頻繁な使節の往来があった

 

727年(神亀4)

新羅北方に新羅と対峙する渤海が日本と国交を開く

渤海は高句麗遺民の国

新羅も日本支配層と同じく相手を朝貢国視していたことが原因で外交関係悪化

 

736年(天平8)←倉橋島へ寄港

大使阿倍継麻呂(聖武天皇・聖徳王)

前年の新羅使が、国号を「王城国」と改称したと告知したため、日本は無断で国号を改称したことを責め、使者を追い返している。阿倍らは新羅へ渡るも外交使節としての待遇を受けられず。新羅の「欠常礼」を奏上。なお使節の翌天平9年(737年)の帰国と同時に都に疫病が流行。以降しばらくは新羅から日本への使者は大宰府止まりで、入京を許さなかった(wikiより)

 

743年(天平15)

新羅使が「調」を朝貢の意のない「土毛」と改称した事件以後752年(天平勝宝4)まで使節はない

759年

日本では新羅征討計画が立てられ新羅使を拒絶

遣新羅使も753年以降779年(宝亀10)まで新羅に拒否される

779年

遣唐使の送還のための両国使節の往来を最後に実質上の公の交流は終わる

 

■倉橋島桂浜


■風早浦(現東広島市安芸津)

 

 

広島県呉市は

平成の大合併で

島嶼部分を多く含むようになりました

 

倉橋島(くらはしじま)もそのひとつで

1978年の朝ドラ

『わたしは海』は倉橋島が舞台です

(ヒロイン相原友子さん)

 

 

倉橋島、広島の地図、遣唐使船

 

倉橋島は

広島県と愛媛県との県境に近く

古くから

瀬戸内海を航行する船が寄港し

 

なによりびっくりするのが

飛鳥時代から平安時代にかけて

遣唐使船が作られたと伝わり

 

時代はよくわかりませんが

船を作ったドッグが

今も残っていることです(桂浜)

 

 

図書館で

『倉橋町史』を見つけ

ぱらぱらとめくっていたら

日本書紀などに記されたものがあったので

書いておきました

 

■藤原宮出土木簡 『藤原宮出土木簡概報』
(表)安芸国安芸郡□(海)里
(裏)倉椅部□□調塩三斗

■『日本書紀』巻22 推古天皇廿六年是年条 

是年、遣河邊臣闕名於安藝國令造舶。至山覓舶材、便得好材、以將伐。時有人曰「霹靂木也、不可伐。」河邊臣曰「其雖雷神、豈逆皇命耶。」多祭幣帛、遣人夫令伐。則大雨雷電之。爰、河邊臣案劒曰「雷神無犯人夫、當傷我身」而仰待之、雖十餘霹靂不得犯河邊臣。卽化少魚、以挾樹枝。卽取魚焚之。遂脩理其舶。   ※霹靂=かみなり

■『日本書紀』巻25 孝徳天皇白雉元年是年条

遣倭漢直縣・白髮部連鐙・難波吉士胡床、於安藝國、使造百濟舶二隻。

■『続日本紀』巻16 天平18年10月丁巳(九日)条 

安藝國造舶二艘。

■『続日本紀』巻23 天平宝字五年十月辛酉(十日)条 

遣從五位上上毛野公廣濱。外從五位下廣田連小床。六位已下官六人。造遣唐使船四隻於安藝國。仰東海。東山。北陸。山陰。山陽。南海等道諸國。貢牛角七千八百隻。初高元度自唐歸日。唐帝語之曰。屬祿山乱離。兵器多亡。今欲作弓。交要牛角。聞道。本國多有牛角。卿歸國。爲求使次相贈。故有此儲焉。

■『続日本紀』巻24 天平宝字六年四月丙寅(十七日)条

遣唐使駕船一隻自安藝國到于難波江口。著灘不浮。其柁亦復不得發出。爲浪所搖。船尾破裂。於是。撙節使人限以兩船。授判官正六位上中臣朝臣鷹主從五位下爲使。賜節刀。正六位上高麗朝臣廣山爲副。  ※撙(ソン)=集める

■『続日本紀』巻31 宝亀二年十一月癸未朔条

遣使造入唐使舶四艘於安藝國

■『続日本紀』巻33 宝亀六年六月辛巳(十九日)条

以正四位下佐伯宿祢今毛人爲遣唐大使。正五位上大伴宿祢益立。從五位下藤原朝臣鷹取爲副。判官録事各四人。造使船四隻於安藝國

■『続日本紀』巻35 宝亀九年十一月庚申(十八日)条

造舶二艘於安藝國。爲送唐客也。

お気に入りの
黒の夏用パンツ
 
コムサデモード製で
足がシュッと見えて
この夏よくはいていたのですが
 
あれ?
茶色の点々・・
 
ヘルプが終わって
帰ろうとして気がつきました
 
なんだろう・・
あっ
さっきトイレ掃除した時に
漂白剤がかかって
色が抜けてしまったんだ
 
残念だけど
不注意だから仕方ない・・

 

でも

いいこともありました

タオルいっぱいいただけました

 

不足気味だったので

とっても助かります^_^

 

タオルいっぱい circus柄