しあわせ歴史ドライブ(元九段で働くママの日記)

しあわせ歴史ドライブ(元九段で働くママの日記)

歴史ドライブ(助手席)と能楽と民俗学大好きブログです
現在は東京と広島の行き来生活中

歴史大好きママの助手席ドライブ日記

現在は東京と広島の行き来生活中
NEW !
テーマ:

今日の広島は
ぶり返しの猛暑で暑い一日でした

7.7豪雨から1ヶ月半経ち
JR呉線の広駅-呉駅が復旧するなど
徐々に回復していますが

全面復旧はまだまだ先で

夏休みが開けると
通学の困難が残ることも懸念されています

広島から呉につながる国道や県道も
まだまだ通行止めが多く
熊野道路も渋滞が続いています
(一時期のように4、5時間かかることはありませんが、夕方の帰宅時間は2時間近くかかっているのでは---)


一方で市内の電車はスムーズです
ほんの15kmほど離れているだけですが
全く違う日常です




テーマ:

先日の古文書学は手紙でした
広島藩主の浅野長晟の文がテキストで
手紙の決まりごとなどを教わったのですが

先生はどうも同世代らしく
「私の若い頃は、目上には『様』目下には『殿』と宛名を書いたが、少しして『様』に統一された」と

そうそう---そうでしたね

実は恥ずかしい思い出話があるのです

子育て一段落して会社務めを始めた頃---
上司から系列会社の部長さん宛に手紙を送るのに、宛先をワープロしてと頼まれ
ついては敬称は『殿』としてと

できあがってお見せすると
うーん---やっぱり『様』に替えてください
と言われたので
『殿』を削除し『様』に変えました

数日後、ワープロに残った文字を見る機会がありびっくり仰天!

なんとお一人だけ
敬称が『殿様』になってました ^_^;



テーマ:

先日広島港から海路で愛媛へ行きました

7.7豪雨以来
呉へ入る道路やJRがまだ寸断されているので
船で広島から呉へ行く方も多いです
(復旧したところから徐々に開通してますが、バスや船で代行部分も多くて、通勤通学に数時間かけている方も多いです)

それにしても
晴れた日の夏の瀬戸内海は最高です
日差しは強いけど
潮風がここちよくいい


広島港(宇品港)を出て
呉港を経由し倉橋島が見えてきたら
音戸の瀬戸を通過です


歩く人の顔が見えるくらいの距離で
船はゆっくりゆっくり進みます

現役の渡し船もすぐそこに見えます

『音戸』は『隠土』とも書かれて
古くから海の人々が大切にした場所です


月に一度のうたごえ喫茶が話題の『うずしお会館』と海の一里塚『清盛塚』も見えて来ました


ここから航路を90度変更して
松山観光港へ向かいます
しぶきをあげてまっしぐらに




テーマ:

今日は雨の予報でしたが
午前中は晴れ間ののぞく曇りで
シーツの洗濯がたくさんできました

さてお散歩で見つけたいいもの---

無花果(いちじく)
漢字の通り花が咲かないのでしょうか


百日紅
この漢字でなぜ『さるすべり』?


青い柿の実がこんなにたくさん


民家の庭先に咲く槿(むくげ)

夏の疲れが出る頃です
おいたわりください




テーマ:

次に向かったのは
吉川元春・元長の居館跡
一昨日の冬にも来たことがあります



天正14年(1583)
吉川元春が隠居所として建て天正19年(1591)に三男の広家が月山富田城へ移るまで居館でしたが
その後は菩提寺の海応寺の寺領となりました

中世の居館の石垣がこんなにきれいに残っていて、また整備されているのもほんとうに素晴らしいのですが、観光客らしき人はいつもまばら---


また猪除けの高圧電流線があったので
奥まで行かずにささっとお散歩---

ここは庭園跡


ここは復元された庫裏


ここは水音が響く場所で
赤とんぼが飛び交って
芳ばしい香りの稲穂が頭を垂れ始めていました

いつまでもみていたい風景です---


さて次に大朝町へ向かいました

大朝町の中心部へ出て
まず向かったのは枝の宮八幡神社
ここの本殿は天正三年(1575)に吉川元春、元長親子によって再建されたものです(三間社流れ造り銅板葺き)


その次に向かったのは龍山八幡神社
正和二年(1313)吉川氏が大朝本庄地頭として入封の折に、駿河国吉香村(旧清水市)から勧請し、現在の本殿は永禄元年(1558)に吉川元春が再建したもの(三間社流れ造り銅板葺き)
広島県では厳島神社に次いで古い建物です


ところで高校野球で有名な
新庄高校(私立)はこの大朝町にあります

この子たちは野球部の子でしょうか


大きな祝い幕もあります


場所を探して行ってみると
校舎の前の駐車場に
送迎の大型バスがずらりと何台以上も並んでいて運転手さんが数人待機されていました

ここは中高一貫校の進学校で
遠くからも生徒さんが来るようです
送迎があるなら通えますね---

ということで
北広島ドライブにおつきあいくださり
ありがとうございました



テーマ:


北の方へ行けば
少し涼しいかもしれない
と短絡な考えで北広島町へ向かいましたが
暑っかった(≧∇≦)

中国自動車道の千代田ICそばに
道の駅『舞ロードIC千代田』があり
観光案内所もあったのでパンフレットをいただいたりしました

まず向かったのは
すぐ近くにある有田合戦場跡です

毛利元就の初陣の戦いで
敵方はこのあたりを長く治めていた武田軍6000に対し 毛利勢は吉川氏ら援軍を合わせても1500
状況は完全に不利だったのにもかかわらず
敵方の総大将の武田元繁も仕留める大勝利
初陣を飾りました(『西の桶狭間』とも言われるとか)

この道上に有田神社や山城跡があるのですが
今回はここまでとしました


次に向かったのは少し離れた豊平町の
坤束製鉄遺跡
坤束(こんぞく)は地名だそうです

中国地方は
古代からたたら製鉄が盛んで
江戸時代まで続いていたところも多く
北広島町にも遺跡がたくさんありますが
こんなに整備されて残っている場所は
少ないです

ところがほとんど道しるべがなくて、
説明の記憶をたどって
豊平町の総合運動公園のテニスコートの奥を探して到着しました(あまり人が来ている気配はないかも---)


さてこのあたりは蕎麦の産地で
近くの豊平どんぐり村には美味しいお蕎麦屋さんがあると聞いたのですが、早々と閉店ww

もう一軒教えてもらったお店も
探し当てたのですが
ところどころ草むらの空き地となっている
数十年前に開発された分譲地の中にあり
行くのをやめましたww

ところで空き地に太陽光発電のパネルがいっぱい並んでいたのですが、熱心に営業にまわられたのでしょう---(投資金額は数百万円でしょうか?もっと?)

さてさて
ここから少し北上すると
途中、江の川水系の分水嶺の碑がありました
日本海と瀬戸内海との陰陽分水嶺です


江の川は島根県からググッと広島県に入り込んだかと思うと、三次で大きくUターンして島根県の日本海側へ注ぐというびっくりな川

中国山地ができる前の先行河川だったがゆえの流れです


さらに北上すると
小見谷製鉄遺跡を見つけました

中国山地で古代から続くたたら製鉄は
砂鉄を原料としますが
鉄穴(かんな)という穴に
花崗岩に含まれた砂鉄を川や水路を使って流し込んで土砂と分離
比重差を利用して砂鉄のみを取り出します


遺跡を見るために
水田を見渡す細い山道を上がり
鉄穴などを探したのですが


遺跡は草むらの中で
また山道がとても細くここまでとしました


この位置は吉川元春館跡の南西1.5kmの
小見谷川(和浪川・わなみがわ)沿いで
館の建設の際に『わなみのかち(和浪の鍛冶)』が関わったという記録もあるようです(続く)





テーマ:


頼山陽史跡資料館では
『描かれた宮島』を見てきました

頼家の方々が著した書や軸などがあり
古文書学を習い始めたので
よーしと原本に向き合いましたが
全然読めませんでした(≧∇≦)

軸には
頼杏坪の『厳島春望』
頼山陽が母を連れて宮島へ行ったこと
宮司の佐伯子幹との再会
厳島神社蔵の秀吉の名刀を見た時のこと(山陽の長男の頼聿庵の書)など---

展示を見ていて気がついたことがありました
厳島神社の大鳥居は
落雷で焼失してしばらく再建されなかった時期があったり(1800年頃) 朱色になったのは最近でずっと白木だったのですね

また頼家には藤原貞幹が写した『高倉天皇奉納御扇の裏面』もあったようです
清盛に連れられて御幸した時のものでしょうか

他にも『厳島御島廻之図記』(七浦廻り)
歌川広重の『六十余州名所図会安芸厳島祭禮之図』や月岡芳年の『芳年武者無類平相国清盛』や『月百姿有子』や十返舎一九の『続膝栗毛二編上下宮島参詣』などなど

ところで県立広島大学には
『宮島学センター』があり宮島の歴史や文化の研究機関があるようです

そうですよね
宮島は広島の宝物なのに
最近は
豪雨の風評で客足が遠のいているとか---

早くいつもの宮島になってほしいです
がんばれ広島!




テーマ:

広島市の中心部
旧日銀の裏手には

『日本外史』を著した頼山陽の家がありました

今は中区中町ですが
かつては杉の木小路と言ったようです

今は頼山陽史跡資料館となり
門の正面奥には頼山陽の銅像があります


頼山陽は大阪生まれ
母は大阪の儒者飯岡義斎の娘
父の春水が広島藩の儒者として登用され
11歳からこの杉の木小路に移ってきました

18歳から江戸の昌平坂学問所で2年間学び 
20歳で広島藩医御園道英の娘淳子(15歳)と結婚するも 翌年祖父惟清の弟の弔問に竹原に行く途中に脱藩
しかしすぐに京都の潜伏先から連れ戻され屋敷の離れの座敷牢に幽閉されました

それがこの『国史跡頼山陽居室』
(昭和33年復元)
ここで『日本外史』の草稿が練られました



脱藩は大罪ですが
辛くも罪は逃れたものの廃嫡され妻は離縁
翌年生まれた聿庵は山陽の母静子によって育てられます

山陽は足かけ5年間幽閉された後
神辺(かんなべ・福山市)の菅茶山の廉塾で講師に迎えられますが
32歳から京都に移り私塾など開く一方
『日本外史』の手直しや詩作に専念します

ところで『日本外史』とは---
源氏平氏から徳川氏に至るまでの
武士の興亡を漢文で著した歴史書で
頼山陽が47歳に22巻を完成させ
翌年松平定信に献上したところ「穏当にして中道をうる」と評価され天下に認められることになりました
幕末の志士たちにも大きな影響を与えたとも言われています

さて振り返ると資料館の入口になり
竹林の中庭が涼しげです



資料館の外庭にも
夏の日差しが降り注いでいました



Ameba人気のブログ

Amebaトピックス