鞆の浦(とものうら)の街中を歩きました
 
ところで
鞆の浦の地名の由来は
神功皇后が征韓の帰途に
鞆(とも)を沼名前神社に納めたことに由来
 
鞆(とも)は
左の手首に結びつけてを打ち止めた丸い皮製の道具でほむだとも読みます
 
ちなみに応神天皇は
誉田別尊・品陀和気・(ほむたわけのみこと)とも言い、生まれた時から腕の肉が「ほむた」のように盛り上がっていたとも
 
神功皇后は
瀬戸内沿岸の神社にたくさん伝承が残っています
 
地名のもう一つの由来は
港が巴形をしていることから
巴津(ともえつ)ともよばれたとも
 
ちょうど瀬戸内海の真ん中にあたり
満潮の時には東西から潮が流れ込み
干潮の時には東西へ潮が流れ出すので
 
古くから瀬戸内海の潮待ち港で
遣明船や北前船も朝鮮通信使も寄港しています
 
さて町の路地へ・・

 

 

狭いけれど風情があり

 

 

古い建物も残っています

 

 

今回向かったのは

町の中心部の小山にある

歴史民俗資料館です

 

 

後から撮った写真ですが

この階段をふーふー上がりました

 

 

突き当たりに新しい石垣

ここを曲がって上がりきると

 

 

鞆の浦が見渡せます・・

といいたいけれどそうでもない(笑)

 

 

歴史民俗資料館のある小山は

「鞆城跡」でもあります

 

鞆城はもともと毛利氏が築き

慶長5年(1600)福島正則が修築

元和元年(1615)一国一城令で廃城になるが、水野勝成が入封した際に長子の勝俊の居館を三の丸に置き、福山藩主となってからは、江戸時代を通じて町奉行がおかれました

 

 

刻印の残る古い石垣が置いてありました

 

ところで鞆城は

鞆幕府がおかれた場所ともいわれています

 

 

鞆幕府というのは・・

室町幕府の最後の将軍足利義昭が

天正4年(1576)織田信長に京都を追われ

天正15年まで鞆の浦に滞在した亡命政権です

 

情勢によって

鞆の浦周辺を移動していたようですが

鞆城跡から出土した鬼瓦には

「九七桐」の文様が残っていて

これは常國寺に残る義昭から賜った胴肩衣にも同じ文様が配されていることから

規模の大きな居館がここに建っていたのではと・・

 

 

 

11年間とはいえ

幕府があったとは驚きです

 

また鞆の浦は

村上水軍が海上防御していました

 

この岩場は

鞆の浦の東南の角にあたる大可城跡の海岸線で

村上水軍の城があったところです

 

鞆の浦もう少し続きます(続く)