古代日本の国際関係は
複数の国際秩序が併存する
多元的な外交であった
 
パミール高原以東の東部ユーラシアに視野を広げ、到書文書(某書を某に到すと差出と宛所を明記する文書・外交文書として使用)の丁寧な分析から考察された本
 
特におもしろかったのは
新羅や渤海との外交関係が、羅唐戦争などの絡みで変化したこと
疑似親族関係は軍事同盟を含み、基本的には中国と北方西方諸勢力との間での同盟であることなど
 
備忘録です・・
 

古代日本と東部ユーラシアの国際関係 廣瀬憲雄 和誠出版 2018.10.22

 

序章 東部ユーラシアと東アジア

 

東部ユーラシアとはパミール高原以東の地域 東晋劉宋(第一次南北朝)から五代両宗/遼金時代(第二次南北朝時代) 複数の国際秩序が併存する多元的な外交関係 東アジアの中の日本という視点や冊封体制論のみなおし

 

第一部      五代両宗/遼金時代の外交文書と国際関係

 

中原(華北):後梁・後唐・後晉・後漢・後周の五王朝

中原以外で割拠興亡:前蜀・後蜀・呉・南唐・呉越・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢の十国

到書文書(某書を某に到すと差出と宛所を明記する文書・外交文書として使用)

上書・献書・裁書(皇帝に提出された形式)奉書・到書(皇帝以外に提出された形式)奉書は長属相当の敬意 到書は目下にも使用 君臣関係が貫徹されていない外交関係では表明する名分関係に一定の幅をもたせる外交文書が重要な緩衝材として機能していた

北宋成立した960年には後蜀・南唐・呉越が存在し北宋とは一般の臣下よりも上位の礼式であった

1004澶淵の盟:遼(=契丹)と宋の講和条約で燕雲十六州(漢民族の農耕地帯・万里の長城の南側・北京を含む北方民族の領域に接する・唐の滅亡後は契丹の支配下→金→元 漢王朝の支配下に戻るのは明代)のうち三州を北京は復帰するも銀100万両・絹布20万匹を遼に歳幣する兄弟関係 高麗とは契丹や金など北方勢力との軍事衝突がおこると通常の臣下よりも上位の礼式 西夏とは通常の臣下よりも上位だが政治状況で低下することもあった 金1115満州に建国 高麗918高句麗の後継で新羅末期の分裂状態を統一 金と2南宋は金を上位、南宋を下位 金と高麗は通常の君臣関係 金と西夏も君臣関係

 

第二部      南北朝(400-518)-隋代(589-618)の東部ユーラシアと倭国

 

南北朝の北朝(華北と漢南):北魏→東魏・西魏→北斉・北周→隋 南朝(江南・東晋の後):劉宋→南斉→梁→陳 柔然5~6cモンゴル高原の遊牧民族 ~552突厥(トルコ系遊牧騎馬民族)に滅ぼされる 王は可汗(後のモンゴルの汗(ハン)の源流)5c北魏(鮮卑の拓跋氏が建国)の太武帝に大敗し衰退

南北朝間は対等関係だが名分が相違している 相手の正当性みず自らを中心とする国際秩序 柔然は南朝に対しては高い地位 北魏に対しては君臣関係から会費傾向 「表」ではなく「啓」で媒介 君主不在の場で外交文書を受ける方法で国際秩序の併存の使法 南朝は柔然・吐谷渾(とよくこん/鮮卑出身)・高句麗など周辺諸勢力と連携して北朝に対抗

150年ぶりに倭の五王が中国に朝貢 「宋書」倭人伝巻97夷蕃東夷伝倭国条 讃・珍・済・興・武 劉宋の永初2年(421)~昇明2年(478)倭王武の劉宋遣使 宋書巻10順帝紀 昇明2年(478)五月戌午条「倭国王武遣レ使献=方物_以レ武為=安東大将軍_」475高句麗による百済都漢城の陥落(蓋鹵王(がいろおう)21年 武(ワカタケル)は即位後10数十年後に冊封受けている 倭の五王の冊封は朝鮮半島南部への軍事介入に伴うもので羅済同盟による高句麗への対抗体制が確立すると倭国の遣使が断絶した 「隋書」巻81東夷伝倭国条「日出処天子」『大智度論』魔訶般若波羅蜜多経の注釈書 5c鳩摩羅什により漢訳 「論」の部分で勝論派を相手に方位を実体と認めるか議論 「日出処是東方 日没処是西方・・」しかしこれは典拠ではない 翻訳した外交文書の文言ではないか

 

第三部      唐の全盛期と倭国・日本の外交関係

 

皇極紀の百済関係記事 皇極元年(642)正月遣百済使の安曇比羅夫の舒明の殯儀礼の参加 百済王子豊璋の来日 皇極紀の百済関連記事は642年で繰り下げる必要なし 皇極元年二月高句麗使による泉蓋蘇文のクーデター(643)百済が旧伽耶地域の占領(643)なので一年繰り下げる必要あり 皇極二年(643)七月百済の調では繰り下げなどもあり 百済が初めて倭国に任那の調を提出したのが乙巳の変の「三韓進調之日」だったかも

外交儀礼について 

6c:難波などの客館に大夫を派遣し調の検査宣勅 使者は入京しない 

7c:使者は入京し宮内で使者の奏上と宴会ただし大王は出御せず 難波での調の検査は従来通り

8c:難波での調の検査は消滅 天皇が拝朝の儀と宴会に出御 諸官人も参加 全体として「大唐開元礼」の儀式体系に近いが独自の服属思想である仕奉観念に基づく使旨の奏上も行われている 

9c:「大唐開元礼」にはない朝集堂での送別儀礼登場 仕奉観念による使旨の奏上は消滅 承和以降は天皇は拝朝儀礼にも出御せず

7c第4期(679-690):全ての使者を筑紫で対応 新羅本使・新羅送使・耽羅使・小高句麗使の四使 新羅本使は厚遇、五位以上の大夫が筑紫に派遣される 来倭当初は筑紫太宰が迎接担当し饗宴や宣勅は中央からの人が担当 1年近く滞在もある 新羅送使は筑紫太宰のみが迎接を担当し中央派遣の使者は詔の伝達に限定されている 期間は二ヶ月ほど 耽羅使・小高句麗使は筑紫太宰のみが迎接担当 調の検査も筑紫太宰が行う 1~2か月滞在

7c第2期(663-672)第3期(673-679)第二期はすべて筑紫で対応 第三期は一部を入京 第二期669年新羅が百済に侵攻 672ほぼ新羅が百済を支配下に 第二期664.665.671は唐使が来航 唐使へは中央から二回使者派遣(一回目は外交文書と信物を受け取り京進して中央の判断あおぐ 二回目は中央の判断を伝達 5か月~7か月の長期滞在 唐使以外(新羅使・耽羅使)には中央からは来ず 第三期に入京を許可したのは673新羅本使 (669羅唐戦争672終結)原則として新羅本使と耽羅使は入京(新羅送使と小高句麗使は許可せず薄礼) 耽羅使は新羅に679従属してから格下の扱いとなる 外国船の到着地は筑紫 ただし第一期は難波津 白村江の戦の後は防衛上筑紫とした 第四期(692-697)原則として全使者が入京(天武9年680律令制定の詔 持統4年690藤原京の造営開始 律令国家日本成立への動き)

7c後半から新羅と唐は潜在的な対立が継続 678羅唐戦争終結後なのに唐は新羅征討を計画(吐藩勢力が伸長で中止となったが) 倭国に低姿勢とる 7c後半倭国に「請政」実施

持統9年(695) 請政=新羅使が倭国の朝廷に何らかの政治奏上を行う 676.685.687.695の4回 倭国に低姿勢 新羅王子金良琳を派遣 耽羅国の新羅帰属の確認(耽羅使は独自に倭国と通交したのを問題視) 天武14年(685)持統元年(687)の請政は小高句麗併合や耽羅が新羅に帰属したことの確認 天武5年(676)旧百済領割譲を倭国に承認させる 持統2年(688)3年(689)新羅は倭国使に対する「奉勅人」と天武の弔使の官使をともに格下げ倭国側反発 696新羅使の元旦朝賀への参列や新羅の慰労詔書の発給→低姿勢外交の消滅と新羅を「蕃国」と位置付ける律令国家日本の国際秩序の設定 728新羅は対唐外交の重視 対日外交の相対化 732新羅は日本への「来朝の年期」を奏上し3年1貢が認められ日本に朝貢形式外交を実施せず 735唐は貝江(大同江)以南の地を割譲する(渤海への対抗の為) かわりに毎年唐に使者派遣 734来日の新羅使が「王城国」と国号改めたとして放還される 736遣新羅使の阿部継麻呂が外交使節としての扱いをうけなかった(新羅無礼) 互いの使者を放還すること多かったが遣唐使に関連した使者は受け入れている 736日本の慰労詔書(日本上位の礼)の受け取りを回避したのでは 779遣新羅使は廃止(755安史の乱)

 

第四部      八、九世紀日本の外交関係と君臣関係

 

天長元年(824)一紀一貢制(渤海使の来日を12年に1回とする制)以降から「蒙恩」(=恩を蒙るという意味の書簡用語で相手の起居(安否)を問う後に自分が相手のお陰で息災であることを伝える語)が使われるようになる それ以前は蒙礼(より博礼)だった

貞観18年(876)来日した渤海使あり 渤海王啓=渤海の対日外交文書様式 「某啓」で始まり「謹啓」or「謹浄」で終わる 

上表制度とは:中国由来 表形式の文書を皇帝や天皇に提出すること 必要に応じて皇帝から批答(返答)として慰労詔書・論事勅書は発給される 上表と批答で君臣間の応答となる 日本外交では新羅・渤海に対して 国内では聖武期に上表制度導入し延暦年間には朔日冬至の賀表や致仕の上表が活発に行われた

表と状は皇帝や天皇への上申文書 中国では表:臣某言で始まり奉レ表・・謹言 状:事書/右で始まり奉レ状・・謹奏 日本でもほぼ同じ 表と状の使い分けがあり辞官・致仕には当初表であったが、貞観中期以降には一定の要件に状が使われる

上表:使者は多くは五位の近衛次将で初度の場合は中務省から内侍を経て奏上 二度目からは使者が直接代理に持参して提出 上状:五位の近衛次将を使者として提出する場合もあるが方法は多様で基本的には六位含む蔵人で批答も返されない 上状でも大臣辞大将・辞大納言の場合は上表に準ずる規定あり 状でも官職により細かく序列化されている 批答の文書様式は慰労詔書・論事勅書 中国では発語として「想・卿・想卿」で相手を目下とする語句(北方の有力な突厥・吐蕃・回鶻に対しては「可汗」「替普」など固有君主号を使用) 日本でも新羅王・渤海王など王を使用する以外は国内外とわず「卿・想」用いる(延暦以降には渤海に「惟」使う想よりも相手重視) 承和以降では大臣に「公」卿よりも相手上位の語を使う 貞観年間には「惟」想より上位

日本国内での君臣秩序の変化は1)論事勅書に惟・公も使用して相手の位置づけを高めるのは宋の方法と同じ2)日本では国内臣下のみ使用3)論事勅書に特別な語を加えて国内臣下の一部を重視する一方慰労詔書は外交文書のみに限定された

※渤海使(727-919)34回 ※遣渤海使(728-811)14回

 

終章 日本-渤海間の擬制親族関係について

 

天平勝宝5年(753)日本が渤海高句麗継承国意識に基づき兄弟・君臣関係を提示するが拒否される 宝亀3年(772)渤海独自の高句麗継承国意識に基づき日本に舅甥関係を提示して日本が反発する→擬制親族関係は成立せず

擬制親族関係の特徴は軍事的同盟関係も含む優遇措置である 名分の種類は 父子関係:君臣関係 兄弟関係:対等 叔姪伯姪関係:伯叔が上位だが君臣関係ではない 舅婿舅甥関係:公主降嫁もしくは周辺諸勢力の王女入嫁による親族関係成立が前提で上下関係は明確ではない 中国王朝を中心として北方西方の有力諸勢力が主たる対象で東方の新羅や日本は対象外