あがりきると
広い境内があり
ぎしぎしと大きな幟が揺れていて
正面に見事な本殿があります
現在の社殿は
元禄14年(1700)三原城第四代城主
浅野忠義公により再建されたもの
遡ると
弘治三年(1557)毛利元就公が本殿造営
永禄三年(1560)小早川隆景公が
社殿(本殿、幣殿、拝殿)造営
さらに社領田、十二町二反、神子田、五町三反および 紙本墨書大般若教六百巻(広島県重要文化財)を寄進
時の領主や藩主の崇敬を集めた神社
勇壮なはだか祭でも知られています
創建はというと・・
用明元年(585)社家秦氏が御分霊を奉持し
「杭の伊奈利大明神」として鎮座した
という伝承が残る一方で
稲荷大明神由来記によれば
御祭神は
本殿に宇迦之御魂大神・和久産巣日神・火産巣日神・弥都波能売神・大物主神
相殿に天照大神
掛造はいいですね
手水舎からも
街中がよく見えます
こんな高いところに
石段を築いて
楽々とお参りできるようにした
地元の先人の方々には尊敬します
このあたりは山の中ですが
街道筋になるので
杭(久井)の牛市で賑わった場所でもありました
天暦五年(951)牛馬商人が牛一頭を久井稲生神社神域の室山(現在の牛山公園)で商ったところ、生育がよく、これは久井稲生神社の御神徳によるものと、室山で牛馬の取引を行う人が増えた。応永元年(961)室山に伯耆大仙神社明神を勧請。ここは牛の生産地である中国山地と消費地である尾道、三原、関西をつなぐ立地であったこともあり、応和三年(963)頃から多数の牛馬商人が参集し売買が盛んとなる。
延宝8年(1680)広島藩の公認となり、杭の牛市は、伯耆国大仙市、豊後国浜の市とともに日本三大牛市として広く知られるようになった。明治になって市場開催日が一回から三回になり昭和の初めころまで賑わったが、農作業の機械化など社会情勢の変化で次第に衰退し、昭和39年に千年以上続いた歴史に幕を閉じた。
交通の要所には歴史がありますね
境内末社の八重垣神社は、もともとこの地域に祀られていた地主神だと藝藩通志に記述があり、また境内には奈良時代に始まった神仏習合の形で祀られた社があります。
【祭礼(HPより)】
◯御福開祭(おふくびらきさい)
毎年二月の第三土曜日に本殿にて執り行われる神事。
御福開祭は明治中頃に始まり、参加者は祭典前日までに初穂料を納め、籤くじ紙に住所、氏名を記入します。御福開祭の当日に御幣ごへいで籤紙をすくいあげられた人に御福品が授与されます。
◯はだか祭
毎年二月の第三土曜日に開催される広島県内唯一のはだか祭です。
無病息災を願って300余名の裸男が陰陽二本の御福木を奪い合う荒々しい祭は、大正八年(1919年)に始まり100年以上続いています
◯ぎおん踊り
ぎおん踊りは、大永二年(1522年)、高根山城主であった山名左近将監が久井稲生神社に参拝した際、氏子八ヵ村の人々がにぎやかしとして奉納したことが始まりと伝えられている夏の祭です。
久井町内の旧八ヵ村が集まり、稲生神社の境内末社、八重垣神社の例祭日に武士行列、杖使い、おどり、獅子舞などが奉納されます。
杖使いは雨乞い、虫送りの踊りで、約40名の子どもたちがシャグマを被り、色紙を飾った竹棒を手に円陣を作り、太鼓・鉦(かね)・ほら貝に合わせて「トンカラ」と「チャンカカ」の二種の踊りを踊ります。
風流笠を被った踊り子たちが小鼓を叩き、道びき・いさご・つぼね・花のおどり・宮島・なぞかけなどの九種を大太鼓・鉦・ほら貝に合わせて踊ります。
獅子舞には、ひょうきんじじいが伴い、ひょっとこ面を付け、ささらと陽物を持ってもどき役を演じます
◯御當(おとう)
この伝統的な神事は、慶長三年(1598年) の「稲荷御當之覺いなりおとうのおぼえ」の記述に近い形で行われており、古式をよく伝えている貴重な行事ということで昭和五十六年十二月に「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」に選ばれました。