音頭の瀬戸にある「うずしお」からは
倉橋島南側にある桂浜へ行きました
 
ここの小高い丘にあるのが
 

 

桂浜神社です

今回初めて拝殿の裏手まで行ってみると

 

 

立派な本殿があって

1480年最修の国の重要文化財とあります

 

再修の説の棟札によれば、時の領主平朝臣弘重・貞光・檀那平朝臣民部丞実時によって文明12年(1480)陰暦6月2日に再修された 本殿は前室付の三間社流造・杮葺きで昭和57年に国の重要文化財に指定された(ひろしま文化大百科より)

 

 

写真を撮ってないのですが

本殿は高床式で柱に補修の跡がみえます

 

海風のあたる場所ですが

室町時代の建築物がきれいに残ってびっくりです

 

 

参道の石段の下には説明版がありました

 

「創建の年代は詳細でないが

天平8年(736)遣新羅使の大石蓑磨卿の一行が下向の時に、倉橋島(古くは長門島)の海上に泊船し詠まれた歌に

わがいのち長門の島の小松原 幾代をへてか神さびわたる(万葉集巻15)

とあり当時すでにこの地に鎮座していたと思われる」

 

遣新羅使は571~779年まで

約3世紀にわたって新羅との通交を行い

663年白村江の戦いで一時中止されたが668年には再開(※この時期の遣唐使(630-894年)は30年ほど中止)

727年渤海使が始まり、新羅征討計画がおこるなどして交流が途絶える

 

天平8年の遣新羅使は

万葉集巻15に145首の「遣新羅使歌」(3578番歌~3722番歌)を残した使節でもあります( 後述)

 

 

さて初詣の後で

道路を渡って

桂浜へ歩いていきました

 

大きな鳥居は平成時代にできたものです

 

倉橋島で産するやや紅色がかった花崗岩は

国会議事堂の外装材に使われ

議院石(ぎいんせき)とよばれます

 

 

うまく撮れていませんが

美しい桂浜

西日があたって茶色っぽくみえていますが

もっと白っぽい砂浜です

 

 

ここには江戸時代のドッグ跡(造船施設)も残り

秀吉が軍船を造らせたり

遣唐使船の建造も行われたのではとも・・

 

日本書記によると

皇極天皇元年(642)九月癸丑朔乙卯、天皇詔大臣曰・・復課諸國、使造船舶。

(諸国に課して船舶を造らしむ) 

孝徳天皇白雉元年(650)冬十月・・遣倭漢直縣・白髮部連鐙・難波吉士胡床、於安藝國、使造百濟舶二隻。
(二隻の建造を指揮のため倭漢直等三人が安藝國に遣わされる)

 

呉は戦艦大和も造られ

造船の歴史は古代に遡れそうです

 

 

浜には大きな万葉集の碑がありました

 

〇安芸の国の長門の島にして磯辺に船泊りして作る歌五首

3617: 

石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ
3618: 

山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも
3619: 

礒の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて
3620: 

恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも
3621: 

我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる

〇長門の浦より船出する夜に、月の光を仰ぎ観て作る歌三首
3622: 

月読みの光りを清み夕なぎに水手の声呼び浦廻漕ぐかも
3623: 

山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ
3624: 

我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり

 

「楽しい万葉集」より引用

https://art-tags.net/manyo/map/nagatonoshima.html  

 

 

帰り道

輸入塩の中継基地の三ツ子島をみると

コロナの頃より山が高くなっていて

経済活動が活発になってきたということでしょうね

 
 
【ひろしま文化大百科より】
浜の背後に小高い山があり、石段を登っていくと桂浜神社に至り、拝殿、祝詞殿と続き、その奥の1段高まったところに本殿がある。祭神は宗像三女神といわれる。
 本殿の建築に関する資料としては、根太(ねだ)残片に書かれた棟札に、文明12年(1480)再興の墨書があり、また身舎の柱にも永正8年(1511)に参籠した僧の墨書がある。本殿は、桁行5.5メートル、梁間5.1メートルの前室付き三間社流造りで、屋根は杮葺きである。総体に木割が細く、柱は身舎、庇とも円柱とし、組物は拳鼻付き平3斗、隅連3斗で中備はない。身舎の正面の、中央間は板扉、脇間は板壁となっている。屋根まわりの庇は両端を海老虹梁でつなぎ、軒は繁垂木で正面を2軒、背面を1軒としている。全体に木細く、簡素な造りであり、意匠的に優れている。昭和61年9月に、全面解体復元修理が完了した。