著者の大和岩雄さんは
大和書房や青春出版社を創業した方で
古代史に造詣が深く
たくさんの著作を残されています
 
「秦氏には
秦河勝のような氏の長者だけでなく
付き従う秦の氏がいて
それは
鍛治や陶や土木などの技術を持つ渡来人で
新羅が伽耶を滅ぼした5世紀末に
伽耶の人々が倭国に逃れてやってきた人々ではないか」と・・
 
NHKの番組で
日本人のDNAを調べると
古墳時代(3~7世紀)に
大陸からたくさんの人々が渡海して日本列島にきているのではと・・
 
在野の方の古代史はいろいろな発見もあり
おもしろいです
備忘録として残します
 

『続:秦氏の研究』

大和岩雄 2013 大和書房

 

「三国志」魏志東夷伝の弁辰伝(魏:220-265)その國は鉄を産し韓、濊、倭が鉄を取ることに従事す

「古事記」応神天皇記 秦人を役ちて茨田堤及び茨田三宅を作りまた丸邇池依網池を作り・・秦人は鍛冶集団 東大寺の大仏鋳造の金知識=鋳士銅士仏士など(鋳物師鍛冶師)

 

〇正史で河内の秦人は無視されている「姓氏録」 

秦氏が最も多いのは河内国 雑戸の秦の民集団 河内古市大溝 5c製鉄の鍬鋤(土木用)が作られる(韓鍛冶)

古市古墳群の倍塚出土の武器農耕具あり(重臣の墓の方に鉄器が埋葬されている)

5C伽耶に倭系遺物あり 好太王碑によると400年前後に倭が新羅へ進軍→伽耶地方から渡海して日本へ来住(5C前半~6C後半)

金海市の大成洞古墳群から日本と同じものが出土される 木槨墓と前方後円墳の出現は相互に連動する

4C後半-5C前半:鉄鋌(てつてい)による鍛冶 5後半-6前半:製鉄技術が伽耶百済慕韓から移転 6C中-7C:製鉄鍛冶治金工が本格化

河内国大県郡の鐸比古神社・鐸比売神社・金山孫神社・金山孫女神社(金属系の式内社)あり  河内国大県郡は秦氏渡来以前から製鉄場であった 金山神最初の鎮座地嶽山 龍田神社は風の神(製鉄には風が必要・柏原市生駒山)

 

〇弓月岳の麓の秦の民と兵主神信仰

「日本書紀」応神天皇14年弓月君、百済(実際は新羅)より来たり帰り因りて奏して曰(もう)さく「臣 己が国の人夫(たみ)百二十県を領(ひき)いて帰化(まいけ)り 然を新羅人に拒くによりて皆加羅国に留けり」ともうす。ここに葛城襲津彦を遣わして弓月の人夫を加羅に召さしむ。然を3年経るまで襲津彦来ず。

「日本書紀」応神天皇19年平群木宿祢 的戸田宿祢を加羅に遣わす よりて精兵を授け詔して曰く「襲津彦久しく還らず。必ず新羅の拒くに由りて滞れるならむ、汝等急く往きて新羅を撃ち其の「道路を拓け」とのたまふ。是に木菟宿祢等精兵を進めて新羅の境にのぞむ、新羅王愕じて其の罪に服しぬ。乃ち弓月の人夫を率いて襲津彦と共に来れり。

穴師・痛足(あなし)・足一つ目一つの山人=山鬼 穴師山(纏向)は風の神を祀った山 アナシ・アナセは西北/東南の風 弓月岳の兵主神社のあたりが最も風が強い 風鎮祭あり 式内社「穴師坐兵主神社」「穴師大兵主神社」弓月岳に鎮座する

兵主神も鍛冶と風にかかわる 漢の高祖は挙兵の際、兵主神の「嗤尤(しゆう)」を祀って勝利した。嗤尤は砂を食物とする。ふいご。

櫻井市荒の荒神社の荒は伽羅の地にあった阿羅国から 白木は新羅 萱森(かやもり)は伽羅+頭(もり) 

大和高原の闘鶏国:日本書記には鶏林=新羅 始祖赫居世王(ひょっこせ)は鶏林に生まれた(卵生神話)

秦の民の居住地 大生部多(おおふべのおほ)は常世神騒動で秦河勝が討つ(皇極3年)。大生部多も秦の民 赤染氏(鍍金をおこなう人々のボス)は常世連に改姓 秦の民である 弾圧する側に秦氏・弾圧される側に秦の民(弓月の民)あり

 

〇大和国の鍛冶職の秦の民と多(太)氏  

※弓月岳と三輪山は角閃斑糲岩(かくせんはんれいがん)の山

砂鉄産出の御諸(三輪)山麓の金屋と秦の民

奈良県田原本町秦庄とその周辺の秦の民 地名:多々羅・踏鞴(たたら) 秦河勝の三人の子は長谷川党(武人)、四天王寺伶人、猿楽の能 奈良県田原本町秦庄は秦楽寺(秦河勝創建)あり 

神武天皇皇子の神八井耳命(かんやいみみのみこと)を祖とする多氏(太氏・飯富氏)の蜾蠃(すがる)に命じて国内の蚕を集めるが、誤りて嬰児(子)を集め雄略天皇より少子部と

姓を賜る 多氏は三輪氏以前の御諸山の日神祭祀の祭祀氏族であった 多神社の大鳥居は三輪山を拝する位置にある 大和の秦の民は多氏の配下にあってであろう→大和に有力な秦氏がいない理由 秦の民は技術者集団 秦庄(田原本町)の「秦」を名乗る人々は多神社の氏子 もともと日神祭祀を行うのが多氏

 

〇三輪氏以前の御諸山祭祀と秦の民

伽羅国出身の陶人を祖とする三輪氏

三輪氏の祖はである崇神天皇の時に河内国(後の和泉国)茅渟県陶邑のオオタタネコ(意富多多泥子・大田田根子=伽羅出身の渡来人?・須恵器生産集団の祖・祭祀用の須恵器)を探して大物主神を祀らせた(記紀) 陶荒田神社(式内社・堺市上之)は須恵器生産の本拠地

洛東江流域の伽羅は須恵器の起源?(大型甕) 5C中葉に渡来した秦の民・伽羅の陶器工人・三輪氏の祖は渡来人・オダマキ伝説 

大三輪氏(大神氏)は半島の外交に通じる 大化元年(645)百済に派遣された三輪君東人、新羅に派遣された三輪君色夫 天智元年(662)新羅派遣の三輪君根麻呂、天武12年(683)高麗大使として三輪引田君と難波麻呂 大物主の神話に出るタタラヒメ 三輪山山麓に金屋という地名あり 南朝鮮にも多々羅城などあり朝鮮系の語 三輪も韓鍛冶(からかちのべ)?6C前半に王権によって三輪山祭祀集団として移住せしめられた

(山城に存する大神氏は楽家となり高麗楽を伝える)

御諸山は大物主と関係しない原初には天皇霊の籠る山 山頂に日向神社あり 6C末「三輪山」になる 陶人の後裔が三輪氏を称して台頭 5C代までは多氏の支配下であったが御諸山祭祀の主導的立場へ 秦の民も関与 「閼英(新羅の初代王の正妃)」が閼川(アルカワ)で水浴し神霊と交融する 賀茂神社の御あれ祭と関連? 賀茂氏、三輪氏、秦氏・・(丹塗矢伝説)

伽羅の始祖王首露の出生譚(両班の娘が洗濯中に鮎を採り男児を生んだ

「姓氏録」の秦忌寸条:弓月君は百国七県の伯姓(秦の民)率い葛城地方を賜ひ居たが葛城氏滅亡の後、山城国へ移住 山城の最初の移住が大和から山城へ入る 岡田(岡田鴨神社あり)賀茂氏、秦氏、秦の民は共に山城入りした

賀茂氏と三輪氏が同祖系譜を伝承していることから、秦、三輪、賀茂の三氏に丹塗矢伝承(日光感精伝承)がある 天之日矛(新羅皇子)の日光感精伝承と似ている

松尾神社の祭神の鳴鏑矢も丹塗矢と同じだが、本来は日神(日光)や雷神へかかわっている 松崎日屋〇〇

伊勢に日神が移ったのも御諸山山頂から望拝する朝日が伊勢の海から昇った朝日だったからでは?

敏達期(572-585)までは御諸山は日神祭祀の聖山 物部蘇我氏の争いで崇仏派が勝利して変わりオオタタネコの三輪氏が台頭し大物主の山となる 日神祭祀を行っていた多氏の祖は二代目天皇になるはずだった神八井耳命だった

 

〇秦氏祭祀と八幡神と大神比義と丹生

「三代実録」香春山の一の岳:辛国息長比咩神・二ノ岳:忍骨神・三ノ岳:豊比咩神社は入

っていない(貞観7年865)「延喜式神名帳」は田川郡三座として辛国息長大姫大目命神社・忍骨命神社・豊比咩神社=採銅所(放生会の神鏡) 最初の祭祀氏族は辛嶋氏、長光氏、赤染氏・・帰化人で秦氏族 八幡神が宇佐の地に降臨した時、神は鍛冶翁や鷹に化身して現れるのは香春山の神が八幡神?

新羅語の金の村=カグボル 韓国語のKURI(銅)クリ→カル→カハルに転じた?

「豊前国風土記」昔昔新羅の国の神自ら度り到来り 倭鍛冶=鋳造 韓鍛冶=鍛造

6C末大神比義(大和国胆吹(いふき=宇陀郡神御子牟須比命神社(みわみこみむすひめ)があるというが出身地では? イフク、ふいご、たたらは伽羅からの帰化人?・宇陀郡神御子牟須比命神社の近くの入谷は丹生谷 丹生の出身地に媛蹈韛五十鈴姫命/神武天皇妃を祀る神社)

御諸山が三輪山になった時・欽明天皇の時代に宇佐に入った 辛嶋氏と同じ陶の出身 宇陀の辰砂(丹生)採取も秦氏 蘇我馬子に加担した大神白堤と血縁あり 大神白堤は率川神社(媛蹈韛五十鈴姫命を祀る)を創建 三枝祭(さんくさのまつり)に用いる笹百合を供献している

用明2年(587)都入りしていた豊国法師(奇巫・医術)との関連 豊国も丹生を産出する秦王国の神信仰への中央王権の関与と共に丹生支配の意図もあって蘇我馬子は大神氏を宇佐へ

豊後国丹生郷(大分市丹生)の丹生神社は稲荷神社を併設 丹川(あかかわ)赤道(あか〇こ)金谷の地名あり

播磨風土記によれば天之日矛説話の地と秦氏の居住地は完全一致する(by平野邦雄) 天之日矛-秦氏-息長氏(by三品彰英)8C息長丹生真人(近江国坂田郡丹生)の一族から画工司(画師)を多く輩出(by佐伯有清)息長氏-秦氏-丹生と結びつく 丹生(水銀)は秦の民に深くかかわる

 

〇大仏鍍金と丹生赤染氏秦の民

伊予:安倍小殿小鎌を伊予国に遣わして朱砂を採らしむ 北宇和郡日吉村父野川鉱山・新居(旧神野)・出石山

土佐:長曾我部は秦河勝の子孫と称する 山城国稲荷神社の禰宜である秦伊呂具の子孫が信濃国更科の稲荷山に〇日神社→土佐国長岡郡宗部郷へ移動し長曾我部と称する

讃岐:大内郡には「和名抄」に入野の郷名がみえ「にふのや」の訓 秦氏の集住のひとつ

若狭郡遠敷郡と三方郡 越前国敦賀郡丹生郷は秦氏の分布地

伊勢国多気郡多気町丹生の水銀鉱山「日本書紀」(秦大津父が伊勢に商価(あきない)して来〇る(もうくる) 伊勢山城の広域ネットワークで丹生山の採取製錬交易

天平19年(747)大仏鋳造の一か月前に香春神社の祭祀氏族の赤染氏は常世連に改姓 常世信仰(神功・応神・仁徳期・武内宿祢の長命もそう)神功皇后らが常世国から出現する少彦名命を寿ぎ気比大神を祀る 気比は伽羅新羅王子の渡来地 ツヌガアラシト?

大仏は河内の智識寺から思いつく 秦氏氏族の寺

大仏開眼供養の年に秦の民の仏工銅工鋳工の雑戸から解放され伊美吉(忌寸)賜姓を受ける

秦朝元(中国生まれ)・秦嶋麻呂は聖武天皇の寵臣で共に藤原家に娘を嫁す 茨田弓東女の家を行宮にしている=金智識衆の主導的位置にいた 茨田堤を築いた茨田連(後に宿祢)は継体天皇の后になるが、この茨田氏配下の秦人(河内国の秦人) 藤原種継は秦朝元の孫 藤原小黒麻呂は嶋麻呂の孫 共に長岡京平安京造営にかかわる

 

〇鷹に化身の鍛冶神と秦の民 和気氏

金屋子神は白鷹の上にノッテ降ったという伝説

「はぶく」(羽ばたぎること)は古代はふいごの意味にも使われた 祝(ほふり)=神官の所作が鳥の羽振りのようから

石上神宮の巫女の「ヒレ」は魂招ぎ(たまおぎ) 「鳥=鍛冶=巫」

八幡神が最初に祀られたのが「鷹居社」

宇佐八幡宮放生会は古宮八幡宮(採銅所)から豊日別宮(草場村)に宝鏡を納め奉じて宇佐宮へ向かう 鷹巣山とよばれる山は砂鉄や砂金がとれることが多い←和気氏の本来の根拠地 

鳥取氏の本拠地は大和国大県郡の秦氏、秦の民の本拠地と同じ 金山彦神社、金山媛神社あり 倭鍛冶氏族 和気氏の勢力範囲 美作・備前・播磨西部は有力な銅鉄生産地

「播磨風土記」讃容郡の鹿庭山で産出する砂鉄を別部犬(わけべのいぬ)が発見 別→和気に通じる 「宇佐八幡宮託宣集」八幡神が金色の鷹になって犬を連れて伊予の石鎚山へ行った

吉備津神社 温羅 御釜神事 鬼ノ城は砂鉄の山 吉備山中は金屋子神の降臨地のひとつ 吉備津彦は鷹となる

 

〇秦氏と秦の民と空海との関係(1)

「虚空蔵求聞持法」インドの善無畏が中国に伝え玄宗皇帝に献上(717)医術・呪術・錬金(丹)術→空海に出家を決意させた(秦氏の勤操が教えた・長岡京にて)

香春、宇佐は秦氏が信仰する虚空蔵信仰の九州の一大中心地 宇佐に虚空蔵寺あり

最澄は延暦23年(804)香春岳に登り渡海の平安を願い造寺 延暦24年(805)帰国 弘仁5年(814)「最澄於賀春神宮寺講法華経」

空海 大同元年(806)明州の港を出帆後二年半も九州に滞在 「大師帰朝の後賀春明神に啓して曰く・・」

法蓮(宇佐・豊国奇巫)は虚空蔵寺の住職 虚空蔵求聞持法を学んだから虚空蔵寺という名にした?

飛鳥の百済仏教→蘇我・漢=都市的貴族的VS白鳳の新羅仏教→秦=在地的土豪的 6C初頃に民間に?

稲荷神社の重要神事は「鞴(ふいご)祭」秦の民が祭祀していた非定着農民のイナリが定着農民のイネナリ信仰に変化

空海 大同4年槇尾山寺に入り(勤操による)高雄山寺に入る(勤操の意向?)高雄山寺は秦氏の氏寺

 

〇秦氏・秦の民と空海との深い関係

空海は宝亀5年(774)生まれ 母の阿刀氏は新羅からの安刀奈未の流れをくむ

田村神社(讃岐国一之宮)は創紀から秦氏 治水工事新田の水源でもあった

高野山は丹生明神の化身から譲渡された 高野山は丹生産地

 

〇秦の民が祭祀する本来のイナリ信仰

深草の屯倉管理を託された秦氏は荷田氏が祀っていたイナリ山祭祀に加わった(奪った?)

「山城国風土記」化ニ白鳥一飛翔居ニ山峯一生レ子遂為レ社

謡曲「小鍛治」三条小鍛治宗近が童男の稲荷神が相槌となってイナリ山の赤土(焼刀土)で名刀を作り上げた この埴土が赤であったので「赤」がイナリ神のシンボルになったのでは?

稲荷神社を創始した秦伊侶具の祖は秦大津父=欽明天皇即位記に記事あり「大蔵省に拝(ま)けたまふ」商価(あきな)ひ 商ったのは丹生であろう

狐信仰は古い狼信仰で鍛冶信仰とかかわる 佐藤〇氏の説:餅=タガネモチ=田金=砂鉄/芋草=芋=鋳母(鉧(ケラ))

伏見稲荷大社が初見されるのは「続日本紀」承和10年(843)12月4日 奉レ授ニ従五位下稲荷神社従五位上一

「類聚国史」(菅原道真編)天長4年(827)稲荷大社の樹を切って東寺の建材にしたのでイナリ神が怒って淳和天皇が病になったので従五位下をイナリ神に授けたとある→天慶3年(940)9月4日従一位(当時とのかかわりで位階が上昇)

弘法大師信仰と稲荷信仰は相対的に影響している 弘法大師と稲荷明神の知遇伝説を強調する東寺系の聖が存在し庶民に広げた 稲を荷った翁に出会う 弘法大師信仰によって稲成に?

 

〇非農民と非定住者の秦の民とその信仰

虚空蔵菩薩信仰の山は鉱山が多い 虚空蔵と妙見は星神信仰で結びつく

星神信仰:密教的(尊星法=天台 北斗法=真言宗)・陰陽道(安倍晴明→土御門神道)・仏教的星神信仰(①北斗星を祀る密教系の法とそこから派生した妙見伝説②虚空蔵求聞法による虚空蔵信仰から派生した明神信仰)

交野市の星田妙見宮 栃木県の星宮神社 河内国茨田の細屋神社(星屋神社) 池田市伊居太神社・呉服神社 水上交通には星は方向を知る重要な光

竈神信仰 鉱業に関係ある道具 非農民の信仰

 

〇山池を漂泊する秦の民系木地屋

法輪寺(空海の高弟道昌の寺) うるし寺とも 11月13日文徳天皇第一皇子惟喬親王に対する「報恩講」生地屋の職組 近江の小椋谷を本貫地 山棲みの人を「ハトサン」集落を君ヶ畑など〇〇畑と称す

応神朝に新羅から献じられた新羅系帰化人の稲名部は秦氏配下の木工集団 大宝令後も木工寮に出仕 近江愛知郡(えち)には東大寺に関係する山作所がおかれ、近江の「轆轤工」として上番 山作所が荘園化すると「ろくろ師」と呼ばれ一部は荘園に残り他は他国に漂泊移動する(木地屋) 惟喬親王は小野の地に幽居 小野氏は近江本貫地で先祖を天足彦国押人鏨(たがね)着大使主命といい鍛冶シャーマン 小野氏と親しかった木地師が11c祖にした 依智(えち)秦公(愛知郡居住) 君ヶ畑銀山 小椋・大蔵 椋は倉・蔵の意 秦氏のミツキの貢納職から派生?

 

〇片目の柿本人麻呂伝説と秦の民

人麻呂の木工頭の伝説は本当の木工権頭だった紀貫之を重ねたもの 人丸片目伝説 柿本氏と小野氏は同族 片目の鍛冶神

三次の「稲生物怪録」天明3年(1783) 一つ目の物の怪 三次の氏神八幡神社がおかれているが八幡神も一つ目の神

ギリシャ神話ゼウスの従者で巨人のキュプロスは一つ目で人を食う ゲルマン神話の至高神で神々の父オーディンは片目→あえて片目をつぶって霊力を得る

もともと片目一つ目を祀る漂泊の民の信仰は後に農耕民によって一つ目の化け物とされた

「藤」という名は水脈を掘り当てて井戸掘りする者あるいは鍛冶漂泊の従 鉱脈を探す人に多い名=水の淵(ふち)と同語

和邇(わに)ワニは朝鮮語のサヒに対応 族称ワニは鍛冶の職能にちなむ

 

〇信州伊那の秦の民の目一つ神信仰

権五郎景正は御霊神社の祭神 出羽国金沢柵の攻略で鳥海弥三郎の矢で左目を射抜かれる 

信州伊那の雲彩寺の片目伝説 権五郎景正が開基 600m近くに田中八幡神社の境内に五郎宮 南信濃村八日市場の正八幡宮の八幡神は片目(遠山郷)

遠山郷名田熊 南信濃村梶谷(かじや)は半数以上が鎌倉姓で権五郎景政の子孫という伝説→片目伝説は鍛冶伝説

高遠町大鹿村の木地師に御霊信仰 イナ部(伊名郡)は木工集団新羅系帰化人

飯田の白山神社 イザナギ命大穴牟遅命も共に片目 

 

〇秦氏関与の善光寺創建と信濃国造

元善光寺は四つある

① 信濃国伊奈郡麻績村(おおみむら) 高岡古墳群の畦地1号墳は新羅王都慶州古墳と同じく銀製長鎖式垂飾付耳飾とそっくりなものが出土

② 垣内元善光寺(八尾市):本田善光が難波掘立の仏像を信濃へ帰る途中一宿した寺(秦氏)

③(小山善光寺)南面(命)山無量寺院善光寺(藤井寺市小山):葛井寺(王仁の後裔

6氏のうち葛井氏の氏寺 善光寺大勧進にかかわる 本田善光は実在の麻績東人の別名 小山善光寺の地「誉田」から百済系氏族が創作した名(本田)

④ 諏訪大社別社として善光寺は同じ場所にあった 湯福神社(箱清水)・武井神社(御射山)も諏訪神

持統天皇が竜田の風神(諏訪の須波 水内などの神を祀らしむ(691)

水内の神「建御名方富命彦神社」名神大社  信濃国造の金刺氏とのかかわり

松尾山善光寺 諏訪下社は信濃国造が建御名方命を祀る

※河内の垣内善光寺から河内の秦巨勢大夫と信濃の若麻績東人の二人によって仏像が運ばれ、この計画を推進した人は信濃国造金刺氏

 

〇秦氏が結ぶ日本と韓国の白神信仰

奥三河の霜月神楽「白山祭儀」 柳田国男「稲の産屋」によると生まれ変わりの神事 オシラ神のシラ 白神は養蚕にかかわる神で蚕は死と再生をくりかえす「月の出羽路(菅江真澄」「信達一統志」 秦公酒について「新選姓氏録」によると、秦の民92部18670人を得て遂に秦公酒に賜ひき ここに秦の民を率いて蚕を養ひ絹を織り筐(はこ)に盛り闕(みかど)に詣でて貢臣りしに・・天皇嘉ばせたまひて特に寵命を降しひたまひ号を賜ひて禹都万佐(うずまさ)といへり 「蚕の社」は葛野秦氏の本拠地 木島坐天照御魂神社の境内社に養蚕神社あり(右京区太秦森の町) 養蚕-秦氏-新羅 sirikek(朝鮮語) sirghek(蒙古語) soreg はむ結びつく 新羅始祖赫居世(ひょっこせ)や五代王の婆娑尼師今(ばさにしきん)が養蚕をすすめた

オシラ信仰 布目順郎氏「太古蚕馬記」の馬娘婚に由来する

韓国の白山信仰は死と再生の輪廻観 金剛山 檀君信仰(古朝鮮の建国の伝説の祖)洞窟 子宮 朴

彦山神社(九州)はじめ山岳修験を隆盛にした山々で白山神を祀ってない山はない(中野幡能) 天童 日子山 母子神 中国では日の出の地を「扶桑」 韓国では延鳥郎(イヨンオラン)・細鳥女(セオニョ)が日本に去ったので日・月がでなくなったが、細鳥女が織った絹を使者に渡し祀ると日・月がでるようになった

ヒルメ(天照大神)が養蚕の道を開いた(日本書紀) 大比留女が乗った船は空舟(うつぼふね)で形は繭 白は鍛冶神にかかわる 金屋子神は白鷺に化して西国から来た 白狐に乗ってきた鍛冶屋の娘に化身したのは白狼 イナリ神も白狐

 

〇白山(しらやま)を白山(はくさん)にかえた差別意識と秦の民

白山(2730m)を開山したのは秦・渡し守で賤民? 民衆の信仰 8c前半の人 被差別民が信仰していた?

白山神社(加賀国)白山比咩神社は寛文元年(1661)まではシラヤマと言われハクサンではなかった

 

〇白神信仰の八百比久尼伝承と秦道満

オシラサマ祭儀は桑の枝で男女二神を作り、巫女が左右の手に握って祭文祝詞祓を唱え加持祈祷をする 白太夫(しらだゆう)も同じ木偶を操って所作する

宇佐神宮 石清水八幡宮にも百太夫社(ひゃくだゆう)あり傀儡が信仰する神 八幡宮の傀儡舞の人形遣いが神事芸能で有名 高麗時代の漂泊白丁民が由来?

 

〇賤民視された秦の民とその芸能

味間(あじま)・唱門師(万歳などをする陰陽師)の居住地 世阿弥の血縁が住む

秦(芦屋)道満は唱門師・陰陽師の祖といわれる 芦屋は河辺の地で非人が住む 

猿楽師の秦の民は鍛冶師や鉱山師 例として大久保長安(金山奉行)は金鉱石採掘を横坑道にした 製錬技術を水銀を使ったアマルガム法を導入した

 

2013年 大和書房