広島市西区己斐にある
旭山神社にお参りしました
 
突き上がったような小山の上にありますが
古くこのあたりは海だったので
かつては波打ち寄せる小島だったことでしょう
 
神功皇后が三韓征伐の際に
この地に立ち寄った時
県主から鯉を献上され
「おぉこいこい」と喜んだという伝説が残ります
 
これが地名『己斐(こい)』の由来
拝殿正面には
そんな様子の絵馬が掛かっていました
 
神功皇后の三韓征伐は
日本書紀の記述の干支を2回(120年)ずらすと
高句麗公開土王碑に記された
倭の半島進出とぴったり合う・・
そんな解釈もあるようです
 
(倭は391年以来百済や新羅を攻めてくる。400年要請に応えて高句麗好太王が進軍。すると新羅城に満ちていた倭軍は敗退した)
 
百殘,新羅舊是屬民,由來朝貢,而倭以辛卯年來,渡海破百殘,□□新羅,以為臣民。以為臣民。以六年丙申,王躬率水軍討利殘國軍□□。…百殘王困,逼獻出男女生白一千人,細布千匝,歸王自誓,從今以後,永為奴客。…九年己亥,百殘違誓與倭和通。王巡下平穰,而新羅遣使白王云,倭人滿其國境,潰破城池,以奴客為民,歸王請命。…十年庚子,教遣步騎五萬,往救新羅,從男居城至新羅城,倭滿其中。官兵方至,倭賊退。
 
神功皇后を祀る神社は
瀬戸内海の広島側に多いです
 
三韓征伐が史実であれば
兵士を挑発しながら
瀬戸内を進軍していったのでしょう

 

 

ところで神社の名前の旭山は

弘治元年(1555)

毛利元就が厳島合戦の戦勝祈願をしたところ

朝日が昇り縁起がよいと付けられたと

 

天正17年(1589)

毛利輝元が広島城築城の際にも

この地で下見しましたが

まだ崖下は鯉の浦と呼ばれる海だったことから

広島城は鯉城と呼ばれたとか

 

 

様々なゆかりのある旭山神社

 

実は中世に有力だった己斐氏の

山城のひとつも

この裏手の小山にあります

 

 

最近リニューアルした

西広島駅(古くは己斐駅)が眼下に見えます

ちょっと行ってみました(続く)