『海から読み解く日本古代史』
文化庁の調査官で
日本古代交通史が専門の近江俊秀さんの著
 
ご出身地の石巻市が
暖流寒流が交差する結節点で
南北それぞれの文化が出会うという視点から
古墳時代から平安時代まで
あまり記録に残っていない
東北地方の太平洋側の海洋ルートについて考察
 
縄文時代
オオツタノハガイ製腕輪の分布や石巻市伊原津洞窟への墓葬などから、房総半島から太平洋を北上するルートがあった
 
古墳時代前期には仙台平野にも古墳文化が到来
古墳のある場所は名取川や阿武隈川流域で、天然の良港であるラグーン(潟湖)を河口部に持つ
この時期に牡鹿には古墳はないが、北海道や関東からの移民があった(新金沼遺跡・続縄文や東海系土器がまじる)
 
古墳時代後期にも
五松山洞窟遺跡でも海食洞窟への墓葬が見られ、縄文時代から続くこの風習を持つ海人集団は、東北支配を強める倭王権から注目され、武射氏や大伴値氏らを通じて迎え入れられ、倭王権の東北太平洋沿岸部へ本格的進出のきっかけとなる
 
7世紀末
関東からの移民集団である赤井遺跡は官衙へと発展
この時期はまだ日本海の安倍比羅夫の遠征と同じく穏便であった
 
しかし7世紀後半
陸奥国への城柵や官衙の設置や律令制に基づく地方支配の導入で、天皇の民と蝦夷の間で軋轢がおきた
宝亀11年(780)伊治砦麻呂の乱は、戦功で外従五位下の位を得た砦麻呂を牡鹿郡の大領の道嶋大楯が夷俘と侮辱したためとも言われる
さらに戦闘で捕虜になったり帰順した蝦夷を他国へ移配する一方で、新たに獲得した支配地域に関東から入植させた
坂上田村麻呂らも登場する蝦夷との三十八年戦争は、弘仁2年(811)に弐薩体と幣伊の蝦夷二村の制服で終結するが、地域間交流の航路であった太平洋航路は蝦夷政策という国家による支配領域拡大に利用された
 
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千葉県館山市の安房神社は今は内陸にありますが
海食崖が残る地形で
古代に四国の阿波族がやって来たと聞き
太平洋を渡る人々を知りました
 
そんな海と共に生きてきた人々が
海の道に大きな役割を果たした歴史を知りました