大江健三郎の生家は
『京ひな』の酒屋の隣りで
現在もご兄弟が住んでおられるようです
国の整備事業を利用して
民家を家並みを整えたとのことです
緑色の山が狭る
小田川の小さな河岸段丘に建つ家々
川音も聞こえ
すれ違った町の方々は会釈してくださいました
生き生きと紫蘇の葉
大江健三郎も通った大瀬小学校
山と川音の小さな街でした
第二代藩主加藤泰興と岡崎治郎左衛門
大洲藩の文書『積塵邦語』によれば、大洲藩主泰興(一六一〇~一六七七)は、隣の宇和島藩では、土佐の浪人の市川平七なる者が、色々の紙を漉いて、宇和島城主に召し抱えられているとの情報を得た。大洲藩では寛永一〇年(一六三三)のころには、大洲領内に紙類が衰えたのを残念に思われ「平七の一類の者これあらば抱えたく」と御役筋より平七に仰せ遣わされた。そこで平七は一族の治郎左衛門(一五六八~一六六五)が大洲藩の古田村(現五十崎町)に住んでいることを報告した。しかし治郎左衛門は「当時家職に御座なき故、不案内で一、ニヶ月油取(猶予)申侯」とあり、その後技術を習得した。
また同書に「泰興御鷹狩の節、十夜ヶ橋付近で、馬から下りて平伏しているのを泰興が見て、彼は何者ぞと近くの侍に尋ねられた。則も土州浪人岡崎治郎左衛門とお答申上侯。人品骨格も宜しく御覧遊され侯や。御譜代侍同様の小姓に召抱られた云々」とある。
紙の漉き方については、宇和島の市川平七より巧者な老人を差越させ伝授した。紙漉手伝の人夫は必要次第、藩の作事方から出働させた。入用の諸道具類も藩の支給で、特別扱いであった。治郎左衛門が自力で御用紙を漉くようになると、泰興は古田村の作業所に赴いた。漉場で手伝いの者がすべて平伏したので、泰興は自ら漉舟に歩みより、簀を取って無理な漉き方を始めた。これを見兼ねて治郎左衛門が、手をとって直接に口伝し指導した。それで泰興は機嫌よく帰城したという。
あるとき泰興は大洲から肱川を舟で遡り、内山地区へ鷹狩りに来られた。一人で治郎左衛門の紙漉場を訪ねられ、声をかけられたので、治郎左衛門は藩主とは知らず粗略な返事をした。主君と判って今更仕方なく恐縮していたという。その晩、内ノ子のお茶屋(須崎本家、今は森文の醸造所の前で、戦後藤本善造の宅)にお泊りになった。そして呼出され、叱られるかと恐る恐る出向くと、「寒中、御用紙を漉いてさぞ難儀であろう」とねぎらわれた。御羽織を拝領したとある。
岡崎紙は藩主の専用紙で、庶民には普及されなかった。
愛媛県生涯学習センター
データベース『愛媛の記憶』より