ちょっと愛媛県へ
 
東西に走る国道56号線の内子町あたりを
肱川の支流小田川に沿って
整備された山林の道の
県道379号線に入って行きました
 
5kmほど入ったところは
喜多郡内子町大瀬(おおせ)
ノーベル文学賞受賞された大江健三郎さんの故郷です
 
内子町はかつての大洲藩
藩主の加藤家二代目の泰興は
和紙の生産に力を入れ
内子町周辺は上質な大洲和紙の産地となりました
 
大瀬にも
紙漉き和紙の家々が多くあり
小田川を利用した山林の集積地でもありました
 
行ってみると
古い街並みが残っていました

 

 

大江健三郎の生家は

『京ひな』の酒屋の隣りで

現在もご兄弟が住んでおられるようです

 

国の整備事業を利用して

民家を家並みを整えたとのことです

 

 

緑色の山が狭る

小田川の小さな河岸段丘に建つ家々

 

 

川音も聞こえ

すれ違った町の方々は会釈してくださいました

 

 

生き生きと紫蘇の葉

 

 

大江健三郎も通った大瀬小学校

山と川音の小さな街でした

 

 

第二代藩主加藤泰興と岡崎治郎左衛門

 

 大洲藩の文書『積塵邦語』によれば、大洲藩主泰興(一六一〇~一六七七)は、隣の宇和島藩では、土佐の浪人の市川平七なる者が、色々の紙を漉いて、宇和島城主に召し抱えられているとの情報を得た。大洲藩では寛永一〇年(一六三三)のころには、大洲領内に紙類が衰えたのを残念に思われ「平七の一類の者これあらば抱えたく」と御役筋より平七に仰せ遣わされた。そこで平七は一族の治郎左衛門(一五六八~一六六五)が大洲藩の古田村(現五十崎町)に住んでいることを報告した。しかし治郎左衛門は「当時家職に御座なき故、不案内で一、ニヶ月油取(猶予)申侯」とあり、その後技術を習得した。

 また同書に「泰興御鷹狩の節、十夜ヶ橋付近で、馬から下りて平伏しているのを泰興が見て、彼は何者ぞと近くの侍に尋ねられた。則も土州浪人岡崎治郎左衛門とお答申上侯。人品骨格も宜しく御覧遊され侯や。御譜代侍同様の小姓に召抱られた云々」とある。

 紙の漉き方については、宇和島の市川平七より巧者な老人を差越させ伝授した。紙漉手伝の人夫は必要次第、藩の作事方から出働させた。入用の諸道具類も藩の支給で、特別扱いであった。治郎左衛門が自力で御用紙を漉くようになると、泰興は古田村の作業所に赴いた。漉場で手伝いの者がすべて平伏したので、泰興は自ら漉舟に歩みより、簀を取って無理な漉き方を始めた。これを見兼ねて治郎左衛門が、手をとって直接に口伝し指導した。それで泰興は機嫌よく帰城したという。

 あるとき泰興は大洲から肱川を舟で遡り、内山地区へ鷹狩りに来られた。一人で治郎左衛門の紙漉場を訪ねられ、声をかけられたので、治郎左衛門は藩主とは知らず粗略な返事をした。主君と判って今更仕方なく恐縮していたという。その晩、内ノ子のお茶屋(須崎本家、今は森文の醸造所の前で、戦後藤本善造の宅)にお泊りになった。そして呼出され、叱られるかと恐る恐る出向くと、「寒中、御用紙を漉いてさぞ難儀であろう」とねぎらわれた。御羽織を拝領したとある。

 岡崎紙は藩主の専用紙で、庶民には普及されなかった。

 

愛媛県生涯学習センター

データベース『愛媛の記憶』より