赤穂の最後です
坂越(さこし)へ行きました
 
坂越湾は大きく湾曲し
湾内に浮かぶ生島が風よけとなる天然の良港で
また千種川が海近く流れているので
積み出し港としても適していました
 
その坂越にあるのが大避神社(おおさけじんじゃ)
 
秦河勝が没した大化3年(647)
地元民が秦河勝の霊を祀ったことが始まり
「播磨国総社縁起」によると、養和元年(1181)祭神中大神二十四座に列せられています

 

 

神門から見える島は生島(いくしま)といい

秦河勝が眠っていると伝わります

 

 

大避という社名の由来は

秦河勝が蘇我氏の迫害を逃れて

この地へやってきたからと伝わるようで

 

世阿弥が著した「風姿花伝」には

「摂津国難波の浦より うつほ舟に乗りて風にまかせて西海に出づ 播磨の国坂越の浦に着く」とあります

 

 

本殿は明和六年(1769)

拝殿と神門は延享三年(1746)に再建

 

 

拝殿の絵馬堂には

古い船の絵馬が並んでいます

航海の安全を護る神様ですね

 

 

『坂越船祭』は瀬戸内海三大船祭りの一つ

10月第2日曜日に御旅所のある生島へ

壮麗な船渡御が行われます

 

拝殿の一部は船倉で

この祭礼用和船は兵庫県有形民俗文化財です

 

 

ところで

絵馬には能楽・雅楽関係のものもありました

 

『風姿花伝 第四 神儀に云う』によると

上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝におほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治まり国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。(全文は後述)

 

上宮太子は聖徳太子のことで

秦河勝に命じて66の芸能をはじめ

これを申楽(さるがく)と名付けたと

 

そんなことで

これは元宮内庁式部職楽部の方より

 

 

梅原猛の新作能「河勝」

 

 

元宮内庁主席楽長の東儀俊美さんからと

船絵馬よりも新しい絵馬が多いです

 

また東寺百合文書には

千種川沿いに秦姓の氏の記録があり

子孫が残って活躍したのでしょう

 

 

さてこの日は

境内社の淡島神社の祭礼でした

船に関係する絵馬が多いのも納得です

 

 

名残惜しく大避神社をでて

西の高台へ行くとそこは坂越浦城跡

 

山名宗全や赤松氏の城で

後に赤穂藩の御番所となったところで

今は公園となっていて

海が見渡せ生島もよくみえす

 

生島へは普段は渡れず

古墳もあることから

古くから海洋民族がいたようです

 

 

今回はいけませんでしたが

坂越浦城址から宝珠山をあがっていくと

妙見寺観音堂があります

天平勝宝年問(749年~757年)に行基が開き

後に大同元年(806年~810年)に空海が中興

 

また宝珠山には

南朝武士の児島高徳や

南朝皇子小倉御前と伝わる五輪塔があります

 

このあたりは赤松氏ゆかりの地

嘉吉の乱で室町将軍の足利義教を誅し

一時は衰退した赤松家でしたが

第九代赤松正則は

御南朝より三種の神器を奪いお家再興します(長禄の変)

 

 
さて帰り道に
坂越大道を通りました
坂越湾と千種川を結ぶ道です
 
坂越港には
寛文年間(1661~1672)「西廻り航路」が開設
千種川上流域から高瀬舟で運ばれてきた年貢輸送や各地への年貢米廻漕などにより莫大な利益を得ました
 
写真は大道にある奧藤酒蔵と酒蔵
 

「奥藤家は慶長6年(1601)以来、酒造りのほか大庄屋、船手庄屋を勤めた廻船業で財をなし、金融・地主・製塩・電燈等の事業も興しました。300年前に築かれたと言われる母屋は、複雑な平面形をもつ大規模な入母屋造りの建物で、格式が高く西国大名の本陣にもあてられました。酒蔵は寛文年間(1661~1673)の建物で、高さ2m余りの石垣による半地下式の構造が今も保存されています」(赤穂市教育委員会HPより)

 

赤穂は発見の多いところでした

 


□東儀秀樹さんが大避神社について書かれたもの


風姿花伝 第四 神儀に云う

一、日本国においては、欽明天皇御宇に、大和国泊瀬の河に、洪水のをりふし、河上より、一の壺流れくだる。 三輪の杉の鳥居のほとりにて、雲各この壺をとる。なかにみどりごあり。貌柔和にして玉のごとし。これ降り人な るがゆゑに、内裏に奏聞す。その夜、御門の御夢に、みどりごのいふ、われはこれ、大国秦始皇の再誕なり。日域 に機縁ありて、いま現在すといふ。御門奇特におぼしめし、殿上にめさる。成人にしたがひて、才知人に超えば、 年十五にて、大臣の位にのぼり、秦の姓をくださるる。「秦」といふ文字、「はた」なるがゆゑに、秦河勝これな り。上宮太子、天下すこし障りありし時、神代・仏在所の吉例にまかせて、六十六番のものまねを、かの河勝にお ほせて、同じく六十六番の面を御作にて、すなはち河勝に与へたまふ。橘の内裏の柴宸殿にてこれを勤す。天治ま り国しづかなり。上宮太子・末代のため、神楽なりしを神といふ文字の偏を除けて、旁を残したまふ。これ非暦の 申なるがゆゑに、申楽と名附く。すなはち、楽しみを申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。
 かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子につかへたてまつる。この芸をば子孫に伝へて、化人跡を 止めぬによりて、摂津国浪速の浦より、うつぼ船に乗りて、風にまかせて西海に出づ。播磨の国坂越の浦に着く。 浦人船をあげて見れば、形人間に変われり。諸人につきたたりて奇瑞をなす。すなはち神と崇めて国豊かなり。大 きに荒るると書きて、大荒大明神と名附く。今の代に霊験あらたなり。本地毘沙門天王にてまします。上宮太子、 守谷の逆臣をたいらげたまひし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守谷は失せぬと云々。