広島市安佐北区可部町の北に
三入(みいり)という場所があります
大田川の支流である根の谷川が深く入り込む
山間の平野で
古くは出雲街道が通る交通の要所

承久三年
鎌倉御家人の熊谷直時(熊谷直実の直系)は
承久の乱の恩賞として三入荘地頭に任じられ
安芸武田氏に臣従し
根の谷川沿いの三入に伊勢が坪城、高松城、新宮城を築きました

十二代の熊谷信直は
毛利、大内、尼子らが相戦う時代
安芸武田氏と決別し毛利家家臣となり
毛利家が広島城下へ移ると共に移ったので
三入の城も廃城となりました

支城である新宮城は
熊谷一族の末田氏が城主を務めましたが
その跡地には三入八幡神社が残り
現在も神官は末田氏が受け継いでいるようです

ということで三入八幡神社へ



ここも長い石段です
ひとつひとつ丁寧にノミで削られた石段は
奥行が狭くて急なので休憩しながらあがりました

石段の脇には
古い傾斜の緩い迂回路の石段も残っていました



あがりきったところは社殿の側面で

正面にまわると

削平された平地が境内となっていて

社殿や舞殿などがありました



神仏習合のなごりの梵鐘は

熊谷高直(信直の子)が元亀三年に奉納したもの(仙人と犬・魚に乗った人の絵)


また本殿脇にある小さな石積は

崇道天皇の陵と伝わり

かつて崇道神社があったとのこと


早良親王は淡路島に流されたが、実は生きていて安芸国三入の地に入り生きのびたという伝説があるようです

あたたかい村人に迎えられた貴人が

いたのかもしれませんね



梵鐘の近くには

新しい参道の石段があったので

麓に戻ってぐるっとまわって探してみたら

ずいぶんと離れた場所だったので

意外と大きな山と思いました


また南に接する小山には

丸子山古墳があり被葬者は女性とあり

広島にも卑弥呼のような人がいたのかもと


発見の多い神社でした