昨日アップした
浅野家ゆかりの饒津神社があったところには
もともとは椎木八幡宮がありました
天保4年(1834)に
少し東隣りへ所替わりとなり
明治元年、浅野長勲(最後の藩主)が
後背の山が鶴が羽を広げたようだと
社名を『鶴羽根神社』と名を改めました
その通り青空と山々が印象的な場所
初詣に行きました
神社の創建は(HPによると)
源頼政の室の菖蒲の前が芸州知行せられる折の御遺言によって、元久年間(1204~1206年)に社殿を建立し、御祭神を観請したことが始まり・・
源頼政(よりまさ)は
以仁王らと源氏挙兵の第一人者
大江山の酒吞童子退治した源頼光の玄孫で
近衛天皇を悩ました鵺を退治したことは
能楽「鵺(ぬえ)」にもなっています
菖蒲の前(あやめのまえ)とは
鳥羽院の女房で絶世の美女
頼政は鳥羽院より賜りますが(「源平盛衰記」より)菖蒲の前には伝説があります・・
「安芸国福成寺縁起由来記源三位頼政並菖蒲前事蹟」によると
頼政自刃(源氏挙兵時、宇治の平等院)の後、菖蒲の前は身重のからだで西国へ逃げ、鵺退治で一緒だった猪隼太(いのはやた・ 勝谷右京(しょうやうきょう)と名を変える)共に、賀茂郡西条「千尋の滝」の岩屋に隠れますが三才の若君を種若丸をなくします
寿福寺(現:得行寺)に身を寄せ、豊丸(後の水戸新四郎頼興)を出産し、庵を建立して今の観現寺(西条町御薗宇)に頼政の像を納めます
1191年、頼政の功績によって
後鳥羽院から賀茂一郡を与えられ
息子の頼興(豊丸)とともに二神山(西条町下見)の城に入りました
「我が園よ」と唄ったのが「御薗」という地名由来
そして菩提寺として福成寺(下三永町)を再建します
しかし1204年沼田荘(三原市)の土肥遠平が
二神山の城を攻めたため追われる身となり、鶴姫(侍女)や白馬伝説を残し、曾場山(曾場ヶ城山)の山中に逃れました
その場所が京都の小倉山に似ていたため『小倉山』と名付け、庵を建て出家し西妙(さいみょう)と名を改めました
後に菖蒲の前は小倉大明神として祀られ
小倉神社が創建されました
ところで水戸新四郎頼興(菖蒲の前の息子)は
厳島神社の神官佐伯景弘の娘と結婚し
薗菊姫をもうけ
姫は猪隼太(勝谷右京)の息子と結婚
二人の子の豊之丞は「野坂源左衛門」と改名し
その末裔が伝わっているそうですが
確か現在の厳島神社の宮司さんは野坂さん
ご子孫かもしれませんね・・
実り豊かで荘園も多い安芸国らしいです
伝説などは下記を参照させていただきました
菖蒲の前伝説/東広島市ホームページ (higashihiroshima.lg.jp)
菖蒲の前伝説(原小表現) - 髪処ふくろう ページ! (jimdofree.com)