スコセッシ監督は、著者の遠藤周作の意図を十分理解している。

過酷な拷問、刑罰を延々と見せるのは、これほどまでに苦しみが続くのだということを観客に示し、それでも信念を曲げぬ信仰の強さと、それを見なければならない神父の心の中で生まれる葛藤の深さを訴える。

拷問のシーンが長すぎるという評がアメリカ国内あったが、神父が棄教を決断するには、これほどの拷問があったということを見せる必要があったのでしょう。

老齢の奉行、讃岐守もアメリカ人の目には狡猾だと映ったようですが、彼には徳川幕府からキリシタン絶滅という重要な使命があります。だが、本当はなるべく転向させて、殺したくないという気持ちは、喋る端々に表れています。

また、彼の思考、あるいは何年も前に棄教した元宣教師が語る思考は、結局、キリスト教の教えも仏教も、大本は同じだということです。キリスト教では愛、仏教では慈悲でしょうか。

凄まじい信者への拷問を見ることに耐えきれず、神父がキリストの絵を踏む時、神父は、私を踏みなさいという声を聞き、それをキリストの声だと認識します。

ネットで知りましたが、アメリカのカトリックの聖職者で、それを悪魔の声だという人もいました。残念なことです。

これほどまで、理解することは難しい。神父を売ってしまったキチジローなんかは、アメリカでは、カネのために悪いことをする汚い者ととらえられているのではないでしょうか。家族全員が処刑され、そのトラウマがあるのに、なおもキリスト教を棄てきれず、告解をさせてくれと神父に求めとくるというのに。

この物語は、人間のさまざまな面を見せてくれます。キリシタンの中から代表者4人を奉行所に出さなければならなくなり、3人は自ら志願しますが、4人目は決まりません。それまで強硬論を吐いていた男が、その村の出身者でもないキチジローに、突然、あんたが行ってくれといい、村人全員が同意します。人間のエゴです。キチジローは、役人の前に出てすぐ踏み絵を踏みますが…。

アメリカ人がこの映画をよく理解できなかったのは、カトリックが、スペイン、ポルトガルの世界侵略に一役買ったという事実を意識していないからだと思います。それに触れておけばよかったかも知りません。

ともかくも、考えさせられる映画でした。