その日から、毎夕、雄介は海岸に行った。綾子は黙ってついて行った。
夕焼けは、時には少しだけだったり、あるいは初めてアマルフィーに泊まった夜ののように、空全体が真っ赤になることもあった。
昼間は、2人はときどきドライブにも出かけたが、多くは何もすることもなく過ごした。
あの日以来、2人には体の関係はなかった。お互いに、そんなことはどうでもよくなっていた。
雄介は、最後の日々を、落ち着いた平穏な気持ちで暮らしたかった。できるだけ安定した気分で過ごすことを心がけた。
綾子は、ただ雄介のそばにいて、献身的に過ごしたかった。
アマルフィーに着いてから1週間以上が過ぎた。9日くらいたったろうか。その日も2人は海岸に出かけた。すると、真っ青な空から太陽が水平線に沈み行こうとするころ、空が金色に輝き、周りの海や地面、建物、ありとあらゆるものを照らし始めた。それがしだいに、深紅の色に変って行く。幻想的な光景だった。
雄介は、一言もしゃべらず、黙ってその景色を見ていた。ただ、右手だけが、いつのまにか綾子の左手をしっかりと握ってきた。
綾子も、何もしゃべらなかった。
あるものすべてを染めた金色、そして深紅へと転じた色は、やがて真っ黒な世界へと導いて行った。
そのうち、町に街灯がつき始めた。
やっと雄介は我に返ったみたいだった。
「ああ、こんな美しい光景を見たのは初めてだよ」
綾子の顔を見ながら言った。綾子は、ただ微笑んだ。
「いい思い出ができた」
2人は、また黙ってホテルに向かった。
ホテルについてから、雄介は
「もう満足だ。日本に帰ろう」
と、言った。
「えっ、イギリスに行くんじゃないの」
「いや、こんな美しい光景をみたんだ。この印象を大事にしたいんだよ。イギリスにも素晴らしい景色があるかもしれないが、もう僕はこれで十分だ」
そう語る雄介に、綾子は好きなようにさせたいと思った。
「君に黙っていたけど、スコットランドには、新婚旅行で行ったんだ。他の美しい景色も見たいと思ったんだけど、気が変わった。妻との思い出を大事にしたい。アマルフィーでの君との思い出を大事にするように。男のエゴかもしれないが、許してほしい」
「いいのよ。私のことは気にはしないで。傷ついていないわ」
「ありがとう。間もなく僕は、妻のもとに行くけど、行ったら、人生の最後に、君同様に素晴らしい女性と再会したというつもりだ。妻も許してくれるだろう」
綾子は黙って聞いていた。だが、雄介が言ったことを受け入れているということに、微笑んでいた。