最初は、海外などまったく行く気がなかった雄介だったが、そのうち気が変わってきた。

 「ソレントの真っ赤に映える夕焼けが見たいなあ」

 「ビートルズが最初に歌っていたリバプールのクラブに行ってみたいなあ」

 などと言うようになってきた。だが、それは、言葉の遊びにすぎなかった。本気で行こうという気にさせるには、もっと強い気持にさせることが必要だと、綾子は思った。

 <なんで、私は、あの人を海外に行かせようとするのかしら>

 ふと、そんなことを考えることも、綾子にはあった。

 特別、雄介を海外に行かせたいなどとは思わなかった。雄介も、出張などで海外に行ったことがあると言っていたし、別段、行かせたい理由も思い浮かばない。ただ、心の底を慮るに、3つのことが考えられた。

 最初のころ会ったときに、もう一度海外旅行がしてみたいと言って、行きたい国としてイタリアとイギリスを挙げたことがひとつだ。もう死ぬと分かっている親しい人に、最後の望みをかなえてやりたいと思った。

 もう一つは、綾子も1年あまり日本で暮らして、日本のせせこましさから一時、逃れたいと思ったからだ。そう思って3か月前から、どこかで1シーズンほど暮らしたいと思っていたのだが、その矢先の雄介と会ったのだった。だが、雄介と再会したことで、このまま放っておけないと思い、それで、雄介が海外に行きたいと思うのなら、二人で行ってもいいなと思ったりした。

 最後は、こんな年になって、考えるのもはばかれたが、学生時代にあこがれていた雄介と新婚気分を味わえたら・・・と思ったのだった。学生時代、雄介が好きだったのに、彼は遠縁だからというので、まったく相手にしてくれる素振りを見せてくれなかった。なるほど、遠縁とはそういうものかと思ったのだが、実際は遠縁とは言っても、極めて薄い血縁関係である。田舎に帰って父親に尋ねると

 「血縁関係と言っても、まあないわな。向こうの先々々代くらいのときに、当主の妹が後妻に入ったので、まあ、われわれとは血縁関係はない

 と言って、密かに

 「それなら」

 と思ったりもした。しかし、雄介は、遠縁にこだわって、それ以上の感情はないようだった。


 ×××

 「ところで、健三と『エマニエル夫人』を見た後、どうなったのだったけ」

 雄介が、やっとイタリアとイギリスに行く旅に同意して、日本ではそろそろ熱くなり始め、もうすぐ梅雨が始まりそうな頃、ローマに向かう飛行機の中で、雄介が尋ねてきた。

 「えっ、そんなこと言いましたっけ」

 綾子は、少し身構えた。

 「ああ、言った、言った。『エマニエル夫人』を見ていて君が映画館を飛び出して、健三がすぐ後を追ってきて、それから、近くのカフェかなんかに入ったという話を、ちょっと前にしてたじゃないか」

 「あら、そうだった?」

 「うん」

 「じゃ、言うわよ」

 それから、綾子は、カフェに入ってからの話をし始めた。