これまでのあらすじ

 <商社の部長だった杉田健三は、病に倒れ、閑職へと追いやられる。なすすべもなく、リストラされるのではないかという不安な日々を過ごしていた矢先、自宅で開いたパソコンに入っていたメールに、上田綾子からのものを見つける。

 彼女は、学生時代の後輩で、28年前に別れたままだった。サークルで健三と同期で友人の山中雄介に偶然会って、健三のアドレスを聞いたのだという。健三の胸に、ほろ苦い思い出がよみがえる。サークルに入ったばかりの綾子を映画に誘い、4月29日に待ち合わせることになったのだ。遠い昔の出来事だ。

 しかし、密かに秘めた健三のかつて思いも、妻の初枝の声でかき消されてしまった。とりあえず、綾子には簡単な返信をしておくのだった。そして、なぜ今さら、連絡を取ってきたのか、あれこれ想像するのだった。そんな健三に初めてのデート思い出が胸によぎる。映画館の中で、何度も手を握ろうとしたが、結局できずに見終わった。

 健三が喫茶店に誘うと、綾子は応じた。二人で、健三がたまに行く喫茶店に向かうのだった。その喫茶店も通り過ぎ、何度も手を握るチャンスをうかがう健三だったが、ついに諦めた。まったく知らない喫茶店に入り、二人は、『マイ・フェアェディ』で歌われたいくつかの歌について語り始める。しかし、二人の話はぎこちなく、ついに綾子は、バイトがあると言って、帰ってしまう。

 連休明けに、サークルのたまり場で再会するが、なぜかよそよそしい。しかし、二人きりになると「また映画に行きましょう」というのだった。友達と約束があるからと言って出て行った綾子が、綾子の通う学部のロビーで、男子学生と親しそうに話しているのを目撃して、健三はショックを受けるのだった。それが誤解だということを健三は気づかない。綾子も、たまたま会った男子学生と話していたのを健三に見られていたとは、露ほども思っていなかった。

 その日朝、綾子は、突然生理が来て、処理したものの、臭いが残っているのではと不安に思っていて、健三にあってしまったのだった。映画を見た日、急に帰ったのも、東京に出てきた兄が気分が悪いと言っていたので、気になって、アパートに帰ったという理由があった。それを、健三には言ってなかったのだ。健三は、まだ恋の対象ではなかったが、気になる存在にはなっていた。一方、サークルのたまり場に戻った健三は、そこで親友の雄介にあったが、怒りは治まらなかった。授業に出た後、健三は、雄介に腕を捉まれた。喫茶店に入って、健三は、雄介に何を怒っているのかを問われ、上田綾子のことを話した。雄介は、自分が確かめてみると約束する。たまたま綾子とあった雄介は、綾子はなんでもない男子同級生と話をしていただけだと知る。それを健三に伝えると、健三は喜んだみたいだった。>


 雄介は、健三が人一倍嫉妬深いのを知っていた。それで、綾子が、健三の分科会でなく、雄介の分科会を選んだことを知ったら、なぜだとまたひと騒動あるに決まっている。

 <なんで、よりにもよって、おれの分科会を選ぶんだ>

 と、雄介は迷惑に感じた。

 そんな雄介の気持ちも知らぬげに、綾子は

 「私は、一応仏文なものですから、今のフランスを知りたいのです」

 と、聞かれてもいないのに、雄介に言った。

 <あっ、そうか。そうだ、仏文だった>

 それを聞いて、雄介は、ちょっと安心した。それなら、フランス現代文化を研究する雄介の講座を選んで当然だった。

 「ああ、そうだったね。それで、どういうことを調べたいの」

 「分かることはすべてです。でも、一番知りたいと思うのは、サルトルの実存主義、ボーボワールの思想のもとになっているのは何かと言ったことです」

 「ふーん。難しそうだね」

 「難しいのですか」

 雄介は、実存主義などと聞くと逃げだしたくなった。実は、解説書を読んでもさっぱり分からなかった。ボーボワールの方は、サルトルほど難しい思想ではないとは思ったが、どちらかというと、サルトルとボーボワールが事実上の夫婦なのに、籍も入れていないと聞いていたし、まったく個人として活動しているという事実に、不思議な気持ちを抱いていた。

 「私、二人の関係って、素晴らしいと思うのです」

 綾子も、そういうことを考えていたのか、突然言った。今では、フランスはおろか欧州には、籍を入れない夫婦が大勢いるが、30年ほど前は、欧米もそうだったが、特に日本では、信じられないことだった。

 「君も、あの二人の夫婦関係に興味があるの」

 「興味というか、あこがれです」

 「ほう。どうして」

 「今の日本では、女の立場が弱いでしょう。それは、女が家庭に縛られているからだと思うんです。でも、フランスでは、女が男性と対等で、特にあの二人は、結婚という古い形態をはじめから考えていません。女にそれを許すサルトルも、結婚に縛られずに、自分の信じた道を行くボーボワールも素晴らしいと思います」

 <子供への愛着とか家庭の温かみを大切にしたいといった古くからの当然の考え方もあるとは思うが>

 と雄介は考えたが、それは言わなかった。その代り、

 「なるほどねえ。それは僕も気がつかなかった」

 と感心したように応じた。そう言われて綾子は、ちょっと誇らしげに感じた。

 綾子は、雄介に対する自分の気持ちを確かめたいという思いがあった。初めて父とともに、山中の家に挨拶に行ったとき、山中の父親が、両家の関係を雄介に説明した時、雄介は何のてらいもなく

 「こんちは。よろしくお願いします」

 といささかドライに言った。その時綾子は、都会の男とはこういうものかと、ちょっとあこがれのようなものを感じた。しかし、それは山中に興味を抱いたとは感じていなかった。

 その後、雄介がサークルの話をしてくれて

 「よかったらどうぞ。無理に勧めているわけじゃないから、ご自由に」

 と、特に勧めるでもなかったので、かえって、

 「入ってみようかな」

 と思ったのだった。しばらく考えてサークルに入ったが、特に雄介を意識するはなかった。ただ、今日、彼氏がいるかなどと尋ねてきたので、

 <私に関心があるのかしら>

 と、ふと思ったのだった。それで、昼間会った後、授業に出てから、また話がしたいと感じた。そこで、もしや雄介がまたサークルにたまり場にいるかもしれないと思って、戻って来たのだった。

 「これからどうします」

 綾子が尋ねる。

 「うん、帰ろうかと思っているよ

 「私も途中までご一緒していいですか」

 「ああ、もちろん大歓迎だよ」

 「じゃあ、歩いて行きませんか」

 「そうしようか」

 二人は、外に出て、歩き始めた。すると、雨がしとしとと降ってきた。

 「まいったな。傘を持っていないから地下鉄にしようか」

 雄介が言うと、綾子が

 「私、傘持ってます」

 と、バッグから折り畳み傘を出して、広げた。

 「どうぞ

 と差し出した。それを雄介は受け取って、二人は近寄った。