とって返した野中は、まず幹部の在席を示すランプを見た。長官のところに赤ランプがついている。部屋を飛び出した。
「退庁ですか」
部屋の前にデスクがある担当の女性が声をかける。
「いや、これからお伺いすると長官に電話しておいてください」
「分かりました」
野中は、ほとんど駆け足だった。
長官室では秘書が待ち受けていた。
「どうぞ」
とドアを開ける。
「どうだった」
岩田が声をかけた。
「うまくいきそうです」
「そうか」
岩田は、さきほどまでの桧山次長検事とのやりとりを、微に入り細にいり、大事なことを漏らさないよう報告した。また、桧山の人柄も、一度言ったことは必ず守るとの評価を語った。
「よく分かった。ただ、まだ事務次官には言わないでおこう。検察から資料がほしいと言ってきて、捜査が確実になってかれでいい」
「分かりました」
二人は、年甲斐もなく、体の芯が震えるのを感じたのだった。
翌日、桧山は、東京地検の今井検事正、田畑次席検事、鳥崎特捜部長を、最高検次長検事室に呼び出した。
「あんたら、国税庁からえらいええものをもらっとるらしいな」
三人が顔を見合わせる。
「どういうわけか、わしも手にいれた。これとおんなじやつやろ」
資料類は、前日、野中が置いていったものだ。
それぞれが、手に触れる。
「そうです」
今井が答えた。
「こんなええものもらっといて、着手したという情報がわしのとこにあがってこんのは何でや。それとも、わしが大阪出身やさかい、わしには上げないで、直接検事総長にあげたんかいな。それやったら、別にかまへんけど」
「いや、現在捜査中でして、起訴まで至るかどうか、もう少し時間をかけようと」
と今井。
「そうか。ただ、ちょっと、時間がかかりすぎと違うんか。調査資料はいいものばかりやし、ディープ・スロートちゅうのもおるらしいやないか」
今井の顔色が変わる。
『そこまで知っているのか』
というような顔だ。
「いるらしいです」
とやっと答えた。
「それやったら、さっさとやらんかい。もう、いつガサ入れ、逮捕か決めるだけでええやんか」
「おことばですが」
それまで、今井だけがしゃべっていたが、初めて、鳥崎が口を挟んだ。
「なんや」
「ここで強制捜査となると、絶対に失敗は許されません。万一失敗したら、兼山に対する先の判断ミスに合わせて、検察庁の威信は地に落ちるよりもさらに低いところまで落下してしまいます。慎重にも慎重を重ねて対応すべきです。失敗したら、誰に責任をとらせるおつもりですか」
「決まっとるやないか、あんたには責任はとらさへん。ワシと総長や。先の判断ミスとゆうたけど、あれは判断ミスやない。法律上、あれだけのことやったら、額は多少多いからといって、略式起訴がせいぜいや。世間は騒いだけど、わしらは世間に奉仕するんやない。法律に奉仕するんや。ただ、今回の件は、先の事件とは全く違う。そこでや、同じことを一般の人間がしたらどうなるやろなあ。法の下の平等ということも照らし合わさなければいかん。それに、責任、責任というが、お前さんらより、国税の野中の方が大変なんやぞ」
野中と聞いて、一同、ネタもとの出がどこか納得した。
「と、おっしゃいますと」
初めて、次席検事の田畑が口を開いた。
「ええか、あいつは、今度の事件がどう終わろうと、財務省を辞めるつもりだぞ」
「本人が言ってましたか」
三人は、桧山と野中が親しいらしいことを初めて悟った。
「いや。だが、そう背中に書いてあった。いいか、我々は、検察をやめても、弁護士になればいい。財務省のキャリアも、東大卒だから、どこでも職はあるだろう。しかし、検察の役人は弁護士になっても、法律との関わりは続いていくが、東大キャリアは、どんなにいいところに行っても、行政の道からははずれてしまう。ましては、野中はこれからの男だ。俺は、大阪であいつとよく仕事をしたが、歴代の大阪国税査察部長で彼ほどできたのは見たことがない。東京から来たキャリアでは最高点だ。それが、辞めるの覚悟で、腹をくくってやってるんだ。検察に大変なお土産をもってきてくれたんだぞ。それを見捨てるのか。昔からゆうやないか、据え膳食わぬは男の恥と」
「据え膳食わぬは・・・? ちょっと例が違うように思いますが」
今井の言葉に一同、ワハハと高らかに笑った。そして、今井がさらに言葉を続けた。
「分かりました。全力でやらせてもらいます」
答えざるを得なかった。
「まあ、総長には、おいおいおれから話しておくから」
「えっ、総長はご存じないのですか」
「ああ、知らん。赤レンガ族だからなあ。知っても、悩みが増えるだけだろ」
「よろしいんですか」
「これだけの証拠を国税がもってきた、地検もやるつもりだと言えば、何ともしようがないじゃないか。いくら総長でも火を消し止めることはできないんじゃないか。それは君らもおんなじやぞ。いいか、これがうやむやになれば、国税で関わった人間が多い以上、絶対にマスコミに漏れる。そうなった時の方が恐いぞ。わしはそんなことをしないが、日ごろから検察庁より国税庁の方が、記者とはいいからなあ」
『わしは漏らさんが、と言ってるが、わしが漏らすと言ってるのと同じじゃないか』
鳥崎は、心の中で舌打ちした。
「重々承知しております」
今井が答えた。
「期待は裏切りません」
と言いながら、三人は肩を落として部屋から出た。
桧山は、野中と大阪で酒を酌み交わした時のことを思い出していた。