徳川家康産湯の井戸

「岡崎城・徳川家康産湯の井戸」

 この本は、明智光秀の末裔によって書かれました。といっても、一族に隠されていた真実を吐露したものではありません。三菱電機に技術者として勤めていた経験のある筆者が、専門の情報システム分野の知識をもとに、内外の文献を整理して、驚くべき事実を掘り起こし、真実に迫った書です。

 参考文献も多く、こういうことが書かれてあったのかと驚くことが多いです。そこには、これまで言われているような明智光秀の信長に対する恨み、神になろうとしていた信長への旧秩序派である光秀の思いといった視点とは異なる新たな見解が述べらています。

 なぜ徳川家康の産湯の井戸の写真を張り付けたかというと、かくの通りです。この本によれば、徳川家康は、明智光秀に命を助けられます。そして、堺から伊賀越えで領地に逃げ帰り、軍勢を整えて、光秀の軍に加わろうとした矢先に、山崎の合戦で、光秀が敗れて死ぬという報を聞きます。

 これを一生悔やんだ家康は、その後、光秀の重臣だった斎藤利三の娘を家光の乳母(春日局)にします。というわけで、家康ゆかりの岡崎城の井戸を張り付けてみました。

 真実かどうかは別にして、なるほど、これだけ多くの古い文献に本能寺の変のことが書かれ、あるものは改ざんされ、あるものは密かに残っていたことに驚きます。それを逐一検証した努力は大変だったことでしょう。最後は、なるほどそうかもしれないなあと思いました。