最高検察庁次長の桧山慎一は、部屋で部下の報告を聞いているところだった。国税庁の野中から電話だと聞いて、訝った。
「しばらく顔を合わせてへんが、何事や」
と思った。
野中は、大阪国税局に行っていた頃、桧山は大阪地検で特捜部長をしていた。脱税事件を多く手がけており、野中が部下とともに説明に行くことが多かった。
「お久しぶりだねえ」
「ご無沙汰しております」
「ところで何やねん。もうそろそろ店じまいしょうかと思っとんだが」
「実は、ちょっとお耳に入れたいことがございまして」
「ふーん。急ぎか」
「ええ、まあ」
野中のただならぬ気配を感じて、桧山は、その夜、部下の検事らとの飲み会出席を遅らせようと思った。
「分かった。6時半に来れへんか」
「伺います」
電話を切った野中に、岩田が声をかけた。
「誰かね」
「最高検の次長検事です」
「大阪で一緒に仕事をやったとかいう彼か」
「そうです。6時半に来いというので、行ってきます」
「そうしてくれ。頼むぞ」
自分の部屋にとって返した野中は、いそいで資料を集め、財務省の車を手配した。ほんの1―2時間前に、長官が往復したわずかな距離の同じビルへの道を、今度は野中が往復すことになった。
午後6時半きっかりに、野中は最高検の次長検事室に顔を出した。
「よう、久しぶりやなあ」
大阪出身の桧山は、大阪弁が抜けない。
「どしたんや。いったい何の用やねん」
単刀直入に尋ねてくる。
「お久しぶりです」
「まあまあ。こっちへ来いよ」
とソファーに座って手招きした。
「実は、これなんですが」
野中は、鞄の中から、例の割国のメモを取り出した。それから、これまでの国税の調査結果を書いた資料を並べた。
桧山は、まず、割国のメモに目を通した。
「ふむふむ」
と時々、声が漏れる。それから大急ぎで、調査資料を読む。おおよそ、小一時間ほどたっていた。
「こんなもの持ってきて、困るがな」
と言いながら、桧山はかすかに笑っている。
「大阪時代も何度か同じようなメモを見て貰っていた気がしますが。それを、桧山さんは全部、我々の脱税告発を受けられ、起訴してくれました」
「そうやったかな。ところで、この兼山というのは、あの兼山元代議士かあ」
「そうです」
「ほほう。やりおったな」
「何をですか」
「国税庁が仕事をしてくれた、ということじゃ」
「われわれは、当然の仕事をしたまでです」
「それは検察に対する皮肉か」
「いえいえ、もうとうそんな気はありません」
「筋はええなあ。で、なんで俺のところに来たんや」
野中は、これまでの東京地検とのやりとり、東京高検と国税庁長官とのやりとりを説明した。
「それで、そのディープ・スロートは信用でけるんか」
「ほぼ、確実だと思います」
「思いますでは困るがな」
「ガサを入れる当日、確認をとって、ブツがあるという確証が得られれば、入っていただきたいと思います。確証がとれなければ、なかった話にしていただいて構いません」
桧山は、これまでほとんど捜査一筋だったのと、大阪生まれの大阪育ち、仕事も大阪だったので、兼山略式起訴で世間の指弾を浴びたトラウマは、東京ほどは感じてなかった。ディープ・スロートが誰であるかも、一切聞かなかった。そして即答した。
「わかった。地検のアホどもを明日呼ぶよ」
「ありがとうございます」
「俺の責任に置いて、捜査させる」
「その言葉を聞けて、安心しました」
ドアの前で、野中は数回、礼をしたのだった。
背後で、桧山が言った。
「ディープ・スロートは、最後までちゃんとしておいてくれ」
振り返って、野中は答える。
「分かりました」
大きな声だった。