部屋に戻った岩田は、すぐに、査察部長の野中を呼び出した。野中はすぐに飛んできた。
「何か情報が入りましたか」
開口一番に尋ねてきた。
「ああ、大川さんがその気になってくれたぞ」
「えつ、本当ですか」
「本当だ。彼もいろいろ考えることがあるらしい」
「これで、地検も動きますかね」
「わからんな。すっかり臆病になってるからなあ。でも、1つだけ当たってみようと思う」
「どこをですか」
「東京高検だ」
「高検ですか。現場の地検が動かないものを、上の高検がやらせようと言ってくれますかねえ」
「それもわからん。ただ、検事長の下田次郎は、東大で僕と同級生だったんだ。彼は、なかなか骨のある男だよ」
「そうですか。それじゃ、長官ご自身が行ってくださるのですか」
「ああ、行ってくる」
「よろしくお願いします」
野中が深々と頭を下げて出て行った。
その後、岩田は「国会便覧」をめくって、東京高検の電話番号を調べた。電話のボタンを押していく。交換が出た。
「国税庁長官の岩田といいますが、下田検事長をお願いします」
電話は検事長室の事務室に回されたが、すぐに下田が出た。
「なんだ、珍しいじゃないか。近くなのに、なかなか会う機会がないなあ」
「そうだなあ。実は、ちょっと君に頼みたいことができたんだよ。会ってくれないか」
「たまには、一杯やるか。いつがいい」
「それはまた今度にしよう。これから空いてるかい」
「今か。それはまた急だなあ。何があったんだ。4時から1時間空くけどね」
「わかった。俺も、その時間なら何もない。じゃあ、行くから」
「何の話だ」
「行ってからの話にいてくれ」
「電話じゃしゃべれないのか」
「昔分かれた恋人の話だよ。手切れ金がもらえるって」
「うん、何のことだ。まあいい、楽しみにしているよ」
電話を切ってから、岩田は、相手がどう言えば乗ってくるのか、考えようと思ったのだった。
数時間後、岩田は、同じ霞が関の検察庁のビルにいた。東京高検検事長室だ。
「なんだい、急に電話してきて、昔の恋人がどうのこうのと、訳の分からんことを言って」
「うん、ちょっとね、困ったことがあってなあ」
「そうか、そうか。今日は全部吐くまで返さないぞ」
検事長の下田はおどけて見せた。
「実はなあ、兼山先生のことなんだ」
とたんに、下田の顔が険しくなった。
「なんだ、そんな古証文を持ち出して。あの問題は終わったんだ。罰金だってとったよ」
「わずか20万円だろ」
「だって法律でそう書いてあるからしょうがないじゃないか」
「おまえ、地検から何も聞いていないのか」
「なんの話だ」
岩田は、詳しく話し始めた。
「な、いったんあきらめた女から、手切れ金をこちらが貰うのだという作り話が本当になるんだぜ」
「そんな話があったのか。でも、下手くそな作り話だなあ。で、国税プロパーの見立てはどうなんだ」
「ああ。国税の連中は自信を持っているよ」
「でも、パール・ロイヤルにガサをかけて、絶対に割引債が出てくるのか。出てこなければ、大恥だ。検察の痛手は大きい。この先百年、何もできなくなる」
「その点は大丈夫だ。ディープ・スロートがいる。たとえ他に隠しても大丈夫だ。すぐに分かる」
「本当か。そいつはいったい誰なんだ」
「いえない。しかし、確実な人間だ」
「ふーむ。しかしなあ、確実であっても、なかなか動きづらいなあ」
「なんでなんだ」
「国税の資料をそのまま最高検や法務省に上げるわな。赤煉瓦の連中が納得するかなあ」
赤煉瓦の連中とは、検察官でありながら、最高検・法務省詰めの官僚のことだ。勤めが長くなって、しだいに捜査のことよりも、予算の分捕り、政治家との付き合い、捜査と政治とのバランスに重きを置く考えになっている。高検もそうした影響を受ける。ということは、下田も片足赤煉瓦に足を突っ込んでいるようなものだが、自分はそうではないという言い方をした。
「そうか、俺の方でも少し考えてみるが、君もいい智恵が出たら、連絡してくれ」
そう言って、岩田は検事長室を出た。国税庁に帰って、また野中を呼び出し、事情を説明した。野中は
「分かりました。最高検にはつてがあります。今度は私が行ってきます」
と言うのだった。
「電話をお借りします」
そういうと、野中は、岩田の返事を待たずに、机の電話から受話器を取り、手帳を取り出して、電話を回し始めた。
すでに5時をかなり回っていたが、相手の部屋の脇の事務室につながる直通電話なので、秘書役の部屋の者が出た。
「国税庁の野中ですが、次長検事はいらっしゃいますか」
何度か電話したことがあるので、相手は国税庁の野中という名前を覚えていた。
「まだ、います」
「至急取り次いで頂きたいんですが」
「しばらくお待ちください」
という返事が返ってきた。