最近、今の自分は『嫌な大人』になりつつあるのでは、と危機感を感じている。
16の時に感じていた大人や大人社会への反感や嫌悪感は、若さだったと安易に括ってしまっていいのか。
高校生と仕事をしている中で、彼らの悩みとか不満を聞いていると、自分が忘れかけていたものを思い出させてくれる。彼らは、まだ眼鏡がくもっていないからおかしいものはおかしいって純粋に断じることができる。まぁまぁ世の中そんなもんだよなんてなだめている自分は、ふともうそういうおかしいと感じ憤慨する感覚を抑え、あんなに嫌だった「大人社会」に順応しつつある。適者生存とはいうものの、どうにもならないものに対する抵抗感や改革熱を、そんな状況を飲み込みつつうまくその波に乗っていくことが大人だよ、と知ったかぶって見てみぬふりをする。ぎらぎら感がなくなって、自分の小さな過ごしやすい環境を必死に作りたがり守ろうとする。確かに、必要な能力だ。でも、若い感覚、「大人社会」への反抗心は絶対必要!そうすることが結果的には君のためになるんだよという既存の価値観の押し売りは、本当に若い者のためになるのだろうか。世知辛い世の中を生き抜く処世術と、こんな「大人社会」なんかぶっ潰してやるっていう創造力、想像力、が大切だなと思う。社会に変革をもたらすような発明をする人って、なんか無邪気な子供っぽさがあるし。
生活に追われたり、年相応の責任感の重圧に迫られて、若さを失うことはしたくない。



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唐突ですが、映画が大好きです。こ近年っっっっっっっっっっっっっlの映像美の主張の強さに、食あたり感が否めませんが、嫌いではないです。90年代のアクション、ジャン・クロードヴァンダムやブルースウィリス、スティーブンセガール、ジョントラボルタ、ニコラスケイジも良いし、エディーマーフィーも面白い!007シリーズはピアーズプロズナンが好みです!
好きな俳優さんをあげたらきりがないです!グリーンゾーンのマッドデイモン、トランスポーターのジェイスンステイサム、黒人の俳優さんは僕のなかでは欠かせない!有名な黒人俳優さんはみんな好きだ!ウィルスミスは、インデペンデンスディも良いし、幸せのちからが最高!

ハリソンフォードは、インディージョーンズもいいけど、エアフォースワンや逃亡者、パロリオットゲームが好き!それになんといってもハンソロだ!


僕の映画好きの原点であるジャッキーチェンやジェットリー!


ジャックスパロウのジョニーデップはシークレットウィンドウが良かった!
クワイガンジンのリーアムニーソンかっこよすぎ!ジョンウー監督のスピードに主演した、キアヌリーブスが好き!


警察ものもはまった!リーサルウェポンや香港国際警察。ジャン・クロードヴァンダムのディテクティブは刺激が強かった。トレーニングディのデンゼルワシントンは僕のなかでは新しいデンゼル像だった。ダイハードは3が好き!サミュエルLジャクソンが良かった!
16ブロックのデビッドモースは名脇役!


バッドボーイズはただただ爽快!アサルト13みたいな閉鎖された空間というような設定も好き!爽快といえばウィズリースナイプスのブレイドシリーズ!武器が切れ味良すぎ!


戦争ものはプライベートライアン、エネミーライン、戦場のピアニスト、戦火の勇気が好き!
ザシューター極大射程も良かった!主演の俳優さんのお兄さんはバンドオブブラザーズのリプトン軍曹だ!

エイリアンシリーズは衝撃的だった!プレデターはまだ外交の場に持ち込めそうな気がするが、エイリアンはもう本能剥き出しすぎ、口から口って、、、本能と言えばスピーシーズだ!小学生の時の僕には刺激的で軽くトラウマで、未だにゲオで借りようとしたことはない。
異星人といえばメンインブラックだ!少年のような無垢なロマンはかなり共感してしまう!ユーモアも良いセンスしてた!

シャッターアイランドは、未だに解決していない!結局元からの患者なの?洗脳されてしまったの?




やっぱり、映画の時間は90分がベスト。二時間超えてくると疲れる。それと、最近のアクション映画の要素としてパルクールやフリーランをとりいれているのも良い!でも、やっぱりハラハラドキドキする人間模様のサスペンスはたまらない!展開がある程度読めてしまう位本数見てるので、予想を裏切られたときの快感は病みつきだ!

映画ってなんでこんなにわくわくするんだろう!


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自分が見えていたものが、それは自分しか見えていないものだとしたら…。日常のなかで、ふとそういった思考の階段に立つと、自然とその階段は螺旋をえがく。
視覚情報を脳でうまく処理し記憶する。脳が、眼で見たものを過去の体験的な記憶から、それらが現実に存在するものだと認識する。脳の専門家でない自分はこれくらいの理解しかないが、多分そう違わないはずだ。
木や家、車、看板、いろいろな所を彩る文字や絵、人や動物。自分が見ているものが、現実に存在する物質だと確信して疑わないし、他者も等しく同じものを見ていると信じている。
自分が見ているものを他者に指し示し、確かに君が指し示しているものを自分も見ているという言質を得られれば、ひとまずそれは現実に存在するのだとしていいのだろう。同じ空間、社会に生きるもの同士としてその段階の共感が共有できていれば、少なくとも日常生活に支障はないだろう。

では、そうもいかない状況になったら…。見ているものが、その空間に居る誰とも共有できなかったら。それは自分の脳の誤作動?幻覚?と思い、自分が見えていたものを否定するだろう。そうしたほうがかえって良いような気がする。自分が身をおく空間、世界を否定するよりは楽だ。
でも、間違いなく見ているのだ。自分の脳はそう認識している。少なくとも、その時点で自分の脳は正常であり、精神的にも正気である。他者から同意が得られるか否かは、実際さほど問題ではない。今、自分が見ているものが現実に存在するものなのか、そうでないか、という検討に意識は集中する。視覚以外の五感で確かめようとするだろう。しかし、その検討はたいした成果はえられないことが多いはずだ。そして、気のせいだったのだと納得させる。わだかまりを残しつつも。
自分が見えていたものが、それは自分しか見えていないものだとしたら…。脳が知覚し記憶し形成する現実世界は絶対なのだろうか。脳が知覚しなければ現実じゃないのか?脳が知覚しようともしなくとも、現実は絶対にそこにあるものなのだろうか?
見えるって奥が深い…




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