腹一つと言われるがこれだけ違う・・・マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン 皇后 | 女子の為のの世界史講座

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面白いエピソードとともに比較文化論を交えながら、解説させていただきます。

英国では、雌犬の評価をつけるのに、最悪の不出来子犬を基準としている。基準というよりも、判断材料にしている。同じ、腹ならば、そのような子犬が産まれる可能性があるということだ。

一匹の不出来の子犬が産まれると、その兄弟の犬たちも同類と見なされてしまうわけなのだ。

 

具体的には、マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン 皇后の娘のマリー・ルイーズとマリア・レオポルディナである。

 

先ずマリー・ルイーズ(ドイツ名マリー・ルイーゼ、イタリア名マリア・ルイーザ:1791年~1847年)。彼女はナポレオンが二度に亘ってシェーンブルンに入城して退去を余儀なくされた事もあって、大のナポレオン嫌い。ナポレオンの人形を虐待して楽しんでいた。

そんなことも知らないそのナポレオンは前妻ジョゼフィーヌと決別し、見栄のためにマリー・ルイーズと再婚した。理由はマリーが名門ハプスブルク家の血筋だからで、彼女が産んだ子には、青い血(高貴な血を意味する)が流れていたからであった。

かくして1810年4月、マリーは好きでもないオーストリアの敵、ナポレオンの皇后と成る。そして翌1811年3月、マリーは男児を出産(嫌いな相手でも子供はできてしまう)。この男児が生後直ちにローマ王とされたナポレオン二世(ライヒシュタット公:1811年~1832年)である。

その翌1812年、ロシア遠征に失敗。更に1814年にはオーストリア、プロイセン、スウェーデン、英国によるナポレオン包囲網に敗れ、エルバ島に流される事に成ったナポレオン。

で、実家のハプスブルク家の父フランツ一世も宰相メッテルニヒ(1773年~1859年)もマリーは政略結婚の道具に過ぎないから、知らんぷりをする。

其処でフランツ一世はマリーにエクス・レ・バンの温泉で保養する事を勧める。これは勿論メッテルニヒの策略である。彼は色事師のダム・アルベルト・フォン・ナイペルク伯(1775年~1829年)にマリーの護衛(又は調教師)を命じた。護衛は名目で、ナポレオンを忘れさせる位マリーを骨抜きさせる事が真の目的である。片目ながら、田舎でのナポレオンと違って洗練され、恋の手管にも長けたナイペルク伯にマリーは釘付け。


翌1815年、ナポレオンがエルバ島を脱出したという報せを聞いて驚いたマリーだが、自分の許に早く来て欲しいとのナポレオンの催促に応じようとはしない。更にナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、セント・ヘレナ島に流される事を知ると、喜んだ。もともとナポレオンなんかどうでもいい存在だったのだ。

翌1816年、パルマを与えられたマリーは息子をメッテルニヒの厳しい監視下に残したままナイペルク伯と共にパルマに赴く。
形の上では離婚していない為、ナポレオンの皇后であったマリーだが、ナイペルク伯との間に次々と隠し子を儲けている。1821年、マリーにしきりに会いたがっていたナポレオンがセント・ヘレナ島で没する。しかし、マリーにとっては既にナポレオンは「過去の人」だった。勿論、ナポレオンにはこんなことは知らされない。

1825年、フランツ一世の許可を得て、ナイペルク伯と正式に結婚。1829年、ナイペルク伯没。この時、父フランツ一世に隠し子の存在が発覚するが、許されている。1832年、ナポレオンの血筋という事で尊敬者に担ぎ出されない様メッテルニヒの命によりウィーンでずっと監禁生活を強いられていた息子のライヒシュタット公、死去。1834年、ナイペルク伯の後任としてパルマ統治補佐役に成ったシャルル・ルネ・ド・ボンベルと結婚。1847年、ナポレオンの妃でありながら、他の男との愛に生きたマリー・ルイーズ、没。

姉のマリー・ルイーズがナポレオン皇后として、またナイペルク伯との不倫や子供達への冷淡な仕打ちで後世どちらかと言えば悪女のイメージを持たれているのに対し、妹のマリア・レオポルディナ(ドイツ名:マリア・レオポルディーネ:1797年~1826年)は名君との誉れが高い。彼女が嫁いだのはポルトガル王国のドン・ペドロ(ペドロ一世:1798年~1834年)である。当時ポルトガル王家はナポレオンにより本国を蹂躙され、領土であるブラジルに難を避けていた。そして1817年、オーストリア帝国宰相メッテルニヒはブラジルの豊富な資源に目を付け、レオポルディナを嫁がせる様画策したのである。
レオポルディナは欧州の優れた文化をブラジルに広め、交易を盛んにして国を富ませ、貧困層に手を差し伸べ、現地で人気者に成った。1821年、ポルトガル王室がリスボンに帰還する折に、夫ドン・ペドロはブラジルを統治する為残る様命じられた。しかし、ポルトガルは植民地ブラジルから大量の物資を搾取しようとした為、ブラジルでは独立の機運が高まり、翌1822年、ブラジルは独立を果たし、ドン・ペドロはブラジル初代皇帝ペドロ一世と成る。これもハプスブルク家出身の皇后レオポルディナの政治力に負うところが大きいとされている。
しかし、皇帝は翌1823年には愛妾ドミティリア・デ・カストロ(サントス侯爵夫人:1797年~1867年)に夢中に成り、更に国民から絶大な支持を受けていたレオポルディナにしばしば暴力を振るう様に成り、1826年、腰痛と流産の為レオポルディナは29歳という若さで亡くなってしまう。皇后を死に追いやったという事でペドロ一世の人気はガタ落ち。サントス侯爵夫人も猛烈な批判を浴びた。一方、政治家としての名声と名門ハプスブルク家の血筋が物を言って、彼女の産んだ子供の内、マリアはポルトガル国王マリア二世(1819年~1853年)と成り、ペドロはブラジル皇帝ペドロ二世(1825年~1891年)と成った。
今でもレオポルディナはブラジルでは聖女として崇め奉られ、「国家の母」「独立の祖」「国民の守護天使」と称されているという。

夫ナポレオンに愛されながらナイペルク伯との愛に生きたマリー・ルイーズと夫ペドロ一世から酷い仕打ちを受けながら、政治家として後世に迄語り継がれる名声を残し、流石マリア・テレジアの曾孫と称されたレオポルディナ、あまりに好対照な姉妹である。

 

 


スケコマシのナイペルク伯爵