お疲れさまです
先週、月曜日に久留米市美術館で開催中の
「没後35年 鴨居玲展 静止した刻」
に行って来ました。
先月ここに来た時、次回展示のパンフレットで見た鴨居の絵。
重くて暗く闇が前面に出た作品。
でも、絵から醸し出される圧倒的な存在感やオーラ。
「来月、絶対見に行こう」と楽しみにしていた展示会です。
先月通り、マスクして消毒・・・の手順を済ませ会場内に。
会場はドーンと重い雰囲気が支配している。
(鴨居玲 1928年2月3日-1985年9月7日)
鴨居は常に「人間とは何か?」を問い続け、「人間の心における暗い面、弱い面」心の奥底にある「闇」と向き合い続け、
そして「自らの画風の確立をしなければ」という焦燥感と常に闘っていた画家だそうです。
「自画像の画家」とも呼ばれ、自分をモデルとした作品が多く展示してありました。
[夜(自画像) 1947(昭和22)年]
学生時代から入選するなど、早くから頭角を表していた青年期。
[観音像 1948(昭和23)年]
卒業後も受賞を重ねる日々。
[婦人像 1950(昭和25)年]
でも、それらは時流に翻弄された不本意な作品ばかり。
[青い手袋 1950(昭和25)年頃]
不本意な制作の悶々とする日々を打開するため、単身ブラジルに渡ったそうで、
そこで具象画の可能性を見いだし足を踏み入れたそうです。
[パリ郊外の教会 1960(昭和35)年]
最初に衝撃を受けた鴨居作品の中でも特に異様な3作品。
[時計 1962(昭和37)年頃]
割れた卵から時計が落ちているという作品らしい。
人生の儚さを意味しているのだろうか?
[蛾 1962(昭和32)年頃]
蛾は鴨居作品に度々表れるモティーフの一つ。
[赤い老人 1963(昭和38)年]
他にもダークな作品が並びます。
[風船と女 1965(昭和40)年]
[群がる 1966(昭和41)年]
[今日も終った 1967(昭和42)年]
[太鼓 1967(昭和42)年]
[蛾 1967(昭和42)年]
「静止した刻」受賞作品。
[静止した刻 1968(昭和43)年]
一瞬の緊張感が感じられる作品。
この作品から一躍脚光を浴び鴨居ワールドが始まります。
[蛾と老人 1968(昭和43)年]
1969年製作の「サイコロ」
[サイコロ 1969(昭和44)年]
「静止した刻」が一瞬の緊張感ならば、コレは「永遠の緊張感」のように感じます。
[コメット 1970(昭和45)年]
1971年、スペインへ。
[蜘蛛の糸(芥川龍之介より) 1971(昭和41)年]
そして半年後に鴨居が後に「私の村」と呼んだバルデペーニャスにアトリエを構えます。
[教会 1971(昭和46)年]
わずが9ヶ月ほどでしたが、人当たりの良い住人達に囲まれ、沢山の傑作も生み出され、鴨居の生涯で最も充実した日々だったそう。
[ナザレのおばあさん 1972(昭和47)年]
この年、母親を亡くしている。
[風 1972(昭和47)年]
十字架と母親を重ねた作品か?
この時期から口をへの字に曲げるモティーフが登場する。
酔っ払った自分と叱りつけている母を重ねた作品。
[おっかさん 1973(昭和48)年]
何かを訴えるような老人。
[私の話を聞いてくれ 1973(昭和48)年]
何も無い空間が、より悲壮感を際立たせている。
背景の「PLAZA DE TOROS」は闘牛場という意味。
[英雄 1973(昭和48)年]
闘牛士だったのだろう。
[夢候よ 1974(昭和49)年]
1974年にはパリでの個展も成功を収め、拠点をフランスに移ります。
パリ展ではテレビにも出演し、後に大統領になったミッテランも購入するなど「世界の鴨居」となった。
でも、この頃も焦燥感があったんだそう。
教会もよく出てくるモティーフの一つ。
[石(教会) 1974(昭和49)年]
鴨居の中で、教会はモティーフ以上の存在なんだそう。
この作品のモデルは、鴨居のデビューから死までの素顔を知り尽くす画商、長谷川智恵子
[長谷川智恵子像 1974(昭和49)年]
現在は、株式会社日動画廊代表取締役副社長。
初めての青を使った作品。
[教会 1976(昭和51)年]
スペインで体得した黒から抜け出したく青を使ったのだそう。
[村の楽隊 1977(昭和52)年]
パリに移り住んでからは、背景も明るくなった。
1977年、6年間の海外生活に区切りをつけ帰国し、神戸にアトリエを構えたそうです。
[芥川龍之介『蜘蛛の糸』より 1978-79(昭和53-54)年]
そして「私の村」に代わるテーマを模索し、新たに「裸婦」そして「石の花」のシリーズなどに取り組みます。
[恋人達(B) 1980(昭和55)年]
でも、自分自身納得できず、この時期も新たなテーマを見いだせない焦燥感と闘っていたんだそう。
[石の花 1980(昭和55)年]
[裸婦 19780(昭和55)年]
珍しく、躍動感もあり正のベクトルのある作品もありました。
[望郷を歌う(故高英洋に) 1981(昭和56)年]
亡くなった友人に捧げた作品。
この頃から心臓の病気を患い、そして自画像が増えていき、その表情は苦悩に満ちているようにみえました。
[8, AVRIL 1982 昭生病院にて 1982(昭和57)年]
そして自身の集大成とも言える代表作「1982年 私」を制作。
でも、この絵を見て我が輩が感じたのは・・・
[1982年 私 1982(昭和57)年]
真ん中が鴨居自身で周りは今までのモデル達。
そして真っ白いキャンバス。
この作品からは「もう描けない」という悲壮な思いが感じられました。
まさに集大成。
画家人生の終着点のような。
[出を待つ(道化師) 1984(昭和59)年]
更に、この頃から心臓の病気を患ったせいか、自殺未遂も繰り返していたそう。
[酔って候 1984(昭和59)年]
そしてこの作品「肖像」
もう来るところまで来てしまったような作品。
[肖像 1985(昭和60)年]
先程の「1982年 私」の白いキャンバスが画家人生の終着点とするなら、
白い顔は、人生の終わりを表しているように感じました。
そして、この年の9月7日、
57歳で、自らの手で人生に幕を下ろしたのだそう。
神戸の自宅ガレージでクルマに乗ってエンジンをかけたまま亡くなっているのを発見される。
最後の作品になったのは自画像。
[自画像(絶筆) 1985(昭和60)年]
本人の居なくなったアトリエに残されていたんだそう。
ただ、他の自画像に比べ、少なからず微笑んでいるようにも見えました。
この展示会を見て我が輩が感じた事は、
間違いなく鴨居には絵の才能があった。
でも、
絵の道に進むべきでは、なかったのでは?
と思いました。
才能もある。
名声も手に入れた。
ルックスにも恵まれている。
それでも、進むべきではなかったのではと思いました。
どれも素晴らしい作品ばかりでしたが、裏を知ってしまうと複雑な心境にもなりました。
才能がある人ほど自分を誤魔化す事ができないのかな?
そして、その道に進まない人生は不可能だったのかな?
我が輩は、そんな事をずっと考えていました。
でも、ここを乗り越えてからの鴨居玲の作風も見てみたかった!
と思ったのも正直な気持ちです。
そのくらい、鴨居の絵は魅力的でした。
色々な事を考えさせられた展示会でしたが、それでも貴重な体験となりました。
行ってよかったです。
強く生きていきましょう!