お疲れさまです
先週の月曜日に、福岡市美術館で開催中の
「藤田嗣治と彼が愛した布たち」
に行ってきました
「パリが最も愛した日本人」と呼ばれた、エコパリを代表する日本人画家です
藤田といえば、乳白色の裸婦、猫、自画像が思い浮かびますが、
今回は「布」に焦点を当てた展示会
1920年にパリで大成功を収めるきっかけとなったのが、作品に染織品を描く事だったそうです
なかなか渋いトコに視点を当てたな~
さすが福岡市
いつものマスク~検温・・・の行程を済ませて会場へ
(藤田嗣治 1886年11月27日 - 1968年1月29日)
布を買い集め、描き縫う。
これが藤田の日常だったそう。
(自画像 1929年)
(藤田嗣治 静物(糸巻) 1926-29年頃)
そして1912年、単身パリへ渡った時、パリではピカソ達のキュビズムなど新しい絵が登場していて衝撃を受けたそう
また、第一次世界大戦も始まり貧困生活に陥り、描きためた500枚ほどの絵を暖をとるため燃やしてしまったみたいです。
(調教された犬、あるいは、カーニバルの犬 1922年)
藤田のトレードマークとなるマッシュルームヘアーも、お金がなく自分で切った事が始まりだとか
(5人の裸婦 1923年)
ここで決め手となったのが染織品だったそう
(マッチ箱のある静物 1923年)
パリでは、ピカソやパスキンなどと交流があったそうで、特にピカソとの交友は晩年まで続いたみたいです
(タピスリーの裸婦 1923年)
ここで主に描かれているのはジュイ布。
ボルドー近郊で18世紀後半に創られていた、田園風景や神話の世界を赤や紫などの単色で表した銅板プリント地。
(座る女性と猫 1923年)
(バラ 1922年)
対象であるバラと同等なくらい、テーブルクロスが描かれています。
(裸婦像 長い髪のユキ 1923年)
人体の表現の中で、肌とともに心血を注いだのが髪。筆を巧みに揺らしながら、長い髪を一息に描く鍛練のたわものです
タイトルからして髪に相当な自信があったのでしょう
(横たわる裸婦(ユキ) 1924年)
ユキは二人目の奥さん
ちなみに藤田は×3らしい
(アンナ・ド・ノアイユの肖像 1926年)
レースの網目まで描写しています。
(横たわる裸婦 1927年)
白い布が、肌と同等な存在になったような作品。
(猫のいる自画像 1927年)
(自画像 1929年)
着ているシャツは本人手作りらしい。
1929年、帰国
(仰臥裸婦 1931年)
藤田の絵で連想されるのは、この「乳白色」
藤田は白をしっかり「色」として捉え、この「乳白色の肌」を完成させました
(横たわる裸婦と猫 1931年)
1932年、中南米へ。
(室内の女二人 1932年)
パリ時代は、デザインよりも布の質感にこだわっているよに見えたけど、1930年からは衣装そのものにこだわっているようにみえました。
中南米での作品からは、色鮮やかになってます。
(リオの人々 1932年)
藤田はブラジルで、アフリカ系の黒人女性に注目し、女性達をいきいきと描いていたみたい
(ラマと四人の人物 1933年)
ペルーの染織文化を繊細に描いた作品。
1933年、帰国。
(ちんどん屋 3人組 1934年)
(ちんどんや 職人と女中 1934年)
(角力 1934年)
(吾が画室 1936年)
南米から帰国後、新築した自宅兼アトリエ。
(自画像 1936年)
(秋田の娘 1937年)
(雪国の少女 1930年後半)
(秋田おばこ 1930年後半)
ここから戦争記録画家としての活動が始まります。
(千人針 1942年)
戦争記録画を描くように要請があったんだそう。
でも終戦後の1949年3月10日、
戦争画を描いた事から戦争責任を問われ、
日本に嫌気がさしニューヨークへ。
約1年後フランスに渡り、
二度と日本に戻ることはなかった。
その後、フランス国籍を習得。
カトリックの洗練を受け「レオナール」の名をもらい「レオナール・フジタ」となり、
81歳でフランスに永眠。
会場内は、描かれた実際の布、手書きの手紙や手作りの服など、たくさんの遺品も展示してありました。
我が輩がこの展示会を見て感じた事は、
画家であれば当たり前のように描く、衣装やクロスやカーテンなどに、ここまで特別な感情を込め描いていた画家も、そう多くはいないでしょう 。
そして、あの「乳白色」
ここまで白をしっかり「色」として表現した画家も、中々いないような気がしました。
誰も気にも留めないところに、着目する。
そういった事が成功へ導くんでしょうね
時代に翻弄された天才画家。
藤田の生き様と染織品が、作品にどのような影響を及ぼしたのかが、
少しだけ感じとれた気がします。
二度と日本に戻ることはなかった藤田でしたが、日本を捨てたわけではなかったそう。
「私は世界に日本人として生きたいと願う」
こんな言葉を残していました
本当は、フランスに帰化した1949年以降の作品が見たかったけど、
海外から作品を借りるのが難しいコノご時世、
それでも福岡市美術館が、頑張ってやってくれました