人は、人の誕生日に、おめでとうって言う
ずっと疑問だった
何を祝福してるんだろう、って
何がおめでとうなんだろう、って。
おめでとうって言われたら、
ありがとうって言う
おめでとうって言ってくれる人がいるから、
ありがとうって言ってきた
自分の誕生日におめでとうを言われるのは
自己肯定感に関係なく むずがゆい
できればあまり言われたくないとか思いながら
毎年誕生日を迎える
やっぱり自己肯定感の問題かもしれない
誕生日を祝われてしまうと、
自分が生きてる時間に何か期待されてるように感じてしまう
圧、的な。
誕生日をお祝いされるほど、
生きることが義務になる気もする
実際お祝いされた時はいちいちそんなこと考えないけど
ふと誕生日を祝われるということについて考えると
複雑な気持ちになる
もちろん、ただの考えすぎ、ではある
いつものことだ
でもやっぱり、
どうしても考えてしまうことだから
一度ちゃんと言葉にしておきたい
誕生日の人にはおめでとうと言うのは当然
という、機械的な公式
そんな理由でのおめでとうなら、私は祝われたくない
そんな、公式のように生まれたおめでとうという言葉は
やっぱりできるだけ受け取りたくない
誕生日
生まれたことを、生きてることを、
自分が自分に認める日にしたい
感謝する日にしたい
今まで、生きる、ということをしてきた自分と
今の自分で在れているこの状況や
在りたいように在らせてくれている周りの人たちに
ありがとう、と改めて思う日にしたい。
生きるって、大変
でも、死ぬのも大変
そんな、苦と苦のせめぎ合いの中で
私たちは精一杯に生を選び続けている
そう思う
きっと、生まれてきたのは自分の意志だと思う
お母さんに、産まれろって
無理矢理命を吹き込まれて
人間にさせられた訳じゃない
って思う
何か、生まれる前に
この地球で自分が成すことについて
ある程度目星をつけていて、
地球という場所を体験しながら
自分の目的も叶えていくために
あえてたくさんのことが隠された状態で
地球に来たんだと思う
なんて、スピリチュアルでしかないけど
なぜ生まれたか、今言葉にするなら
私の中でしっくりくるのはこんなところかな
自分の意志で生まれたことを信じたいから
私はこれからも自分の意志に従って行動することを選ぶ
自分が納得できることを一番に信じて、
納得しながら行動する
そうあろうと思う。
そうあり続けて、
また来年誕生日を迎えたら
自分や、周りの人、大切な存在に
ありがとうって思う
いつもたくさんのありがとうを
心から言えるように
これからも、まず自分のために生きようと思う
私。
26年ありがとう。
今年もよろしく。