いよいよ野火止用水の話題を延々始めようと思っていた矢先、毎年恒例のゴールデンウィーク期間限定センチメンタルジャーニーを敢行して、気が変わった。

 

ここ数年、夫婦共通の来し方の地を訪ね、半日程度経巡って往時を懐かしんでいる。

今年は昨年に続いて江東区の深川界隈から中央区人形町方面を歩いた。

昨年まわりそびれた地をさがす、補完作業のようなフィールドワーク。

 

何を置いても発見したかったのが、日本で最初のセメント工場の碑。

清澄公園のそばにあるはずだが、清澄公園内に設置されている案内マップに記載がないので見当がつかない。

 

 

 

見当がつかなければむやみに探しまわるのが私、夫は橋のたもとでじっとたたずみ、やがて静かに次の見学地方面に去って行った。

 

 

 

去る者は追わず。

ちょうど車を洗浄していたタクシーの運転手さんがいたので尋ねてみた。

商売柄、名所旧跡に詳しいのではないだろうか。

案の定、あれがそうかはわからないが、と言いつつ、信号の先をまっすぐ行けばセメント会社だから、その前にあるのがそれでないか、と教えてくれた。

 

目と鼻の先だったが、思っていた方向とは反対だった。方向音痴は健在。

 

セメント工場を発見、その正門を越えるとすぐに復数の記念碑が列んでいた。長靴姿の銅像もある。浅野セメントの創業者、浅野総一郎だ。

 

 

 

 

 

 

銅像の背後のセメント会社は「アサノコンクリート」株式会社。

かつて、この地に日本最初のセメント工場「深川セメント製造場」が建てられた。

1871(明治4)年のこと、石碑の銘文によれば製造に成功したのは明治8年というから、試行錯誤の連続だったに違いない。

 

 

はじめは官営工場だったが、1883(明治16)年に浅野総一郎に安値で払い下げられた。

 

民間のセメント会社としては浅野より3年早い1881年に、山口県の笠井順八がその名もズバリの「セメント製造会社」を創設、これが民間セメント会社の嚆矢となった。

 

笠井も浅野も、近代国家の建設を急ぐ時代のセメント需要が天井知らずであることを見越して、セメントの主原料・石灰石の大量確保を目指した。

 

山口県人の笠井は、秋吉台の鍾乳洞に象徴される地元の豊富な石灰山の採掘権を獲得した。笠井のセメント製造会社は、のちに小野田セメント株式会社に発展する。

笠井順八は小野田の人と街を大事にした郷土の偉人らしい。

 

https://www.city.sanyo-onoda.lg.jp/uploaded/attachment/22891.pdf

 

深掘りしたくなるけれど、最近まわり道が多すぎるので割愛する。武蔵野の地から遠く離れているのが惜しまれる。スミレ姉ゆかりの地に、近いといえば近い。

 

 

浅野は富山県人、すぐ隣の新潟県糸魚川には全山石灰石の黒姫山などもあるけれど、故郷を離れ、東京に拠点を定めてまずおさえたのが、末弟キイロゆかりの東京西部、青梅一帯の石灰山。

青梅の石灰は江戸時代から有名で、青梅街道はこの地の石灰石(漆喰)を江戸市中に輸送するために造られた道。今は人が走る道…

 

 

明治の鉄道の時代になると、1894(明治27)年11月に立川~青梅間に青梅鉄道が開通、

現在の青梅線、石灰石の輸送が目的だった。翌年、日向和田まで延伸した。

当初の日向和田駅は人は乗せず、貨物専用だった。

 

 

浅野が次に触手を伸ばしたのが埼玉県北部。

比企郡大河村(現小川町)から秩父郡東秩父村にかけての一帯、武蔵野台地の北限を越えた丘陵地帯だが、わがフィールドの一角ではある。

浅野セメントが城山と呼ばれる地域の石灰石採掘権を獲得したのは1924(大正13)年、

採掘の操業開始は2年後で、これにあわせて石灰石専用貨物鉄道「東武鉄道根古屋線」を開通させている。

城山の石灰石は6年ほどで採り尽くし、根古屋線も1967(昭和42)年に営業を停止した。廃線跡は道路になって、知る人ぞ知る幻の貨物線になったけれど、たまにマニアが痕跡を探し求めてやってくる。

 

城山の採掘跡は廃墟と化しているが、何度か訪ねて往年の賑わいの追体験を試みた。四半世紀前には、埼玉県屈指の石灰山・武甲山の採掘現場や、新潟県糸魚川黒姫山の採掘現場の見学という、あとで思えば希有な体験をした。

「セメント王」浅野総一郎に無関心ではいられない。

 

現役の「アサノコンクリート」工場の前を「仙台堀川」が流れている。

 

 

仙台堀川は、仙台藩が国元から江戸に海運で米などの物資を運び、江戸湾で隅田川に入ったあと、江戸屋敷までを通すために造った運河。

なんと、アサノコンクリートとその向こうの読売新聞社のあたりが、かつての仙台藩江戸屋敷だったという。

 

 

深川セメント工場跡と浅野総一郎像の探索は昨年来の積み残しだったけれど、仙台堀川探訪はそれより何年も前からの宿願だった。

 

オマケに、清澄排水機場にも遭遇した爆  笑

 

 

 

河川の追っかけをしているうちに、水門、閘門、用排水機場等々、河川施設に目がなくなった。

次回も、まだ松平信綱公の野火止用水にたどりつけないかも知れない。