GIFTのメモ書きから記す記事、その2です。
今回は、オペラ座の次のモノローグについて!
羽生選手って、自分が「羽生結弦」であることをよく知っているんだなあ…
と感じました。
MIKIKO先生を初めとする、制作に関わられた方々も、
この人が「羽生結弦」であることを、とてもよくご存じなのですね…
オペラ座からハケて行く姿が、スクリーンを向かって左から右へ歩いてくる姿につながります。氷の上に映る姿にも。
そして、オペラ座の羽生選手が、扉の向こうに消え、扉は真っ黒の壁になります。
そこで現れる文字が「どこにもいきたくない」。
あぁぁ胸に来るなあ…
この演出効果、後に出てくる「ドア」のお話に通じるのかもしれませんね。
あっ、先に挙げた「どこにもいきたくない」は、
表記の仕方が分からなくて私が平仮名で書いたのではなく、実際にそのように記されていたと思います。
溶けていきそうな無力感が漂ってくる気がしました。
「『僕』は、特別なんかじゃない」で、視界のいたるところが「羽生さん」だらけになります。
スクリーンだけではなく、リンクの周りも、氷にも映っています。
氷の上で一人で演技する風景を見慣れたシングルの選手が、たくさんいる!というだけでも、視覚的な効果が大きいと思いますが、
「羽生結弦」が、「特別なんかじゃない」と言って、大増殖しているのですよ!
衝撃的でした。
どのような人も、大勢の人の中の一人であるのは確かです。
羽生選手だって、全人類80億人の中の一人です。
頭では分かっています。
でも、心が「そうじゃないだろう」と言っている。
個人的には、作品中の人物と、羽生選手本人とを区別して見るのが好きなのですが、
そんなこと言ってる場合じゃない。
ファン目線を抜きにしても、あなたは特別だよ!
一体、どの口が、そんなこと言ってるんだよ!と思ってしまいました。
おそらくは、この言葉は、羽生選手本人の心から生まれたものなのでしょう。
2020年頃から、羽生選手本人も生きた人間の一人なのだ…と感じさせる言動が印象に残るようになりましたね。
そして、それを「物語」の形で伝えるために採った方法が、
「羽生結弦」という人物が、自己の姿で群衆を作って、肉声で「『僕』は特別じゃない」と言うこと。
こんな伝え方、それを許される人にしかできない。
何というパラドックス…
GIFT第一部は、「物語」としてスーッと心に入って来ました。
それに対して、第二部は、「物語」そのものは、もちろん自然に心に届くのですが、
届け方が逆説的な場面が印象的で、ゾクゾクさせられます。
以前、第二部がとても心に刺さったと、このブログに記しました。
その理由は、ここにあったのかもしれません。
本当に、羽生選手も制作に携わった方々も、ここにいるのが「羽生結弦」だということを、よく分かっているのだなあ…
(何だか偉そうな言い方で申し訳ないのですが…)
以下、「お前は何を言ってるんだ案件」です!
この場面の「羽生さん」の進行方向は、
ほとんどが、スクリーンに向かって右なのですね。
そういえば、オペラ座の前のモノローグでは、
人間的な部分を表していると思われる黒羽生さんが横を向くとしたら、こちらも、向かって右の方向でした。
何でだろう?
「物語」としての「右」の方向に、何か意味があるのかしら。
日本の本は、今でも、右から左に向かって読むものが多いですよね。
漫画も、向かって左が進行方向で、未来を表すのでは。
じゃあ、その逆の右は、過去や後ろ向きな心情?
いや、もしかしたら、GIFTの絵本は、左から右に読むのかもしれないぞ?
それならば、右が未来を示すのかしら?
あっ、ここ、東京ドームじゃないですか!
三塁から一塁に向かっているわけです。
攻撃側ならば、後退を意味しますよ!多分!
それはさておき、
フィギュアスケート作品を見て方向を言いたい時に、
「ジャッジ側」とか「ショートサイド」などの言い方がいろいろありますが、
東京ドームの「一塁側」「三塁側」なんて表現できるのは、GIFTだけですよね!!!
羽生選手すごい…
羽生選手の思いは受け取ったつもりだけど、
このように、やはり羽生選手は特別だなあ…と、しみじみと感じます。
でも、やっぱり、羽生選手も心を持った一人の人間なのだということも、よく分かっています。
自分は特別じゃないって、特別の方法で伝えてくる人。
そこが好きです。
(今回の結論はそれなのか!?あっ、メモ書きがまだありますので、また続きを書きます!)