「大人なりの方法で尖れ」
このプログラムから私が受け取ったメッセージは、これです。
(せっかくのロックナンバーで、かつ、ショープログラムなので、世の中に対して何かを訴えている作品という見方をしてもいいですよね???)
羽生選手に、「大人だって、大人らしくブチ破っていいんだよ」と言われた気がしました。
大人の反骨精神、成熟したロックの心・・・という言葉が浮かびました。
その「大人」とか「成熟した」というとらえ方は、どこから来たのか?・・・なのですが、
羽生選手のフワッと浮き上がるようなスケーティングや、エフォートレスな動きから、そのような印象を抱いたのだと思います。
そう、「これぞ 羽生結弦!」的な身のこなしからです。
えー!?そのような軽く柔らかな動きって、逆に、若々しさをイメージさせるのでは?
とお思いになるかもしれませんね。
何というか・・・
尖った歌詞の世界を、少し離れたところから見せる効果がある気がしたのです。
触れれば血が流れるかのような鋭利な心を、温かい物でくるんでいるかのような。
心が剥き出しになっているのではなく、
そのような心があることを、落ち着いて認めている、というか・・・
そんな意味で、「大人」や「成熟」と感じたのです。
お話がそれますが、昨年、マスカレイド(2021 DOI 楽日)の感想を書いたときに、
「透き通るような動きが印象的になり、以前のマスカレイドよりも、プログラム中の人物の心情を俯瞰して見ているような感じだった」
・・・のようなことを記したことがあります。
スケーティングを初めとする、羽生選手のふわりと柔らかな動きが、
「物事の渦中にいること」や「作品中の人物の心情そのまま」ではなく、
「それらを、少し距離をおいて見ている」ような様子を思わせる気がします。
それが、昨年のマスカレイドの場合は、人々の心の中に共通して存在するものをすくい上げて見せてくれたように感じられましたし、
Real Face の場合は、自分ひとりの剥き出しの心ではない・・・と感じたのです。
さらにお話がそれますが、歌詞の「行こうぜ」のあたりで、2011-12 FS を想起なさった方が多いようですね。
私も、衣装がロミオとジュリエット(バズ・ラーマンの方)を思わせるなあ、咆哮に続くステップシークエンス来たー!などと思いました。
あのロミオの心の中にあったのは、絶望かもしれないし、憤怒かもしれません。あるいは、言葉では表せない様々な思いが絡み合って、独りで突き進んだ。
一方、 Real Face。
ステップシークエンス(!?)の時は、フローという感じはあまりしないかもしれませんが、
力強い滑りの中に、フワーッと風に舞うような、あるいは空に向かって行くような動きが散りばめられていて、ドキドキします。
プログラム中の人物が独りだけで突き進んでいる印象は受けないと思います。
「行こうぜ」なのですものね!
このような流れを踏まえるからこそ、その後にあるラップの部分の、怒涛のトウステップが映えるのかもしれませんね。
(今回も、結局、羽生選手スケートうまいなあ・・・という感想になってしまう・・・)
演技の最後の不敵な笑みが意味するところは、
「リアルを手に入れ」たいと願うのは、少年少女だけの特権じゃない。
大人だって、大人らしくブチ破っていい。
あなたはどうしますか?・・・と解釈しました。
このご時世、大人らしく尖るって、大事なことなのかも・・・と思いました。
ところで、このプログラム、羽生選手の手や腕が、これでもかと語りかけてきますよね!
いろいろなダンスを取り入れているのだろうな〜
たとえば、「世界変えられやしない」「笑いたきゃ笑えばいい」のあたりは、ワッキングを基にしているのでしょうか?
(パパシゼが今シーズンのRDで選択♪ 手や腕の使い方が特徴的♪)
あるいは、ダンスというよりも演劇的な記号表現もあるのかも?
何を意味しているのだろう・・・などと、いろいろ想像するのが楽しいです。
いずれにせよ、よくもまあ、滑走しながらこんなに腕や手が動くなあ・・・
(滑走とは言えない場面でも!)
足元だけご覧になる派の方も、きっと全身に目を遣らざるをえないでしょう!
そこで思ったのですが、
このプログラムの歌詞の終わり方ですが、ラップの部分を除けば、
「飛び出して」「行こうぜ」「ステップ」と、足を使う動作を経て、
「ブチ破ろう」「手に入れるんだ」と、手を使う動作で締めますよね?
手(腕)に注意を促すかのような動きが多いのは、そのためなのかな〜?なんて思いました♪
もちろん、ショープログラムとして、観る者を楽しませようという心意気の表れなのだとも思います!
(右足首の怪我のため、足以外のところで何か出来ることを・・・と、研究を重ねていた可能性も高いですね。そう思うと、胸が痛いです。元気でいてほしい。)