今回、フィギュアスケートと関係のないことを書きます。

このブログのトップに記した言葉の元ネタがお分かりになる方は、お読みいただけると嬉しいです。(パソコン版でのブログデザインの元ネタ(?)でもあります)

 

 

ぼやきます。

 

 

 

どうして優良コンテンツを潰すような方法を採ったのだろう?

 

 

(意外に「優良」ではなかったのかな・・・収益良くなかったんです??? と思ってしまったのですが、それはおいといて)

 

 

 

どのようなコンテンツも永遠に続くことはないので、制作側から「最後」とアナウンスされる日がいつかは来る可能性があります。

それは承知です。そこには疑問を抱いていません。

 

分からないのは、「潰すような方法」を採ったことです。

 

 

 

元々のこのコンテンツが制作されていた当時、何があったのかは、もう関係ないのかな。

 

 

その出来事を反映して、当初の予定がどのように変更されたのか・・・とか、

多くの人が、あの状況で「欲していいんだ」「生きていいんだ」と感じられたことは、

今となっては必要のないことなのかな。

 

 

ネタ的に「宗教」と言われていた(今も言われている)けれど、子供達に大切なことをたくさん教えてくれたのは事実でしょう。

子供と一緒にこのコンテンツに触れた大人にも。

もちろん、大人だけで見た人もいる。

 

困難な世の中を生きるために、あらゆる世代に共通して必要なことを伝えてくれました。

 

 

時には、とても厳しいことを言っていた。

当時のあの状況下で、もしも、実在の、生身の人間どうしが同じことを言い合ったならば、きっと心が血を流してしまったと思われるようなことも。

 

でも、登場人物たちの口や態度で語られると、スッと心の中に溶けていく。

 

 

これがヒーローものじゃないのかな。

 

 

 

どうして、当時とは正反対のメッセージを送ることを以って、完結としたのでしょう?

10年前に否定した考え方を、10年後にわざわざ肯定しなくても・・・

 

別の言い方をすれば、現在の社会情勢にも、10年(11年)前のメッセージは、強く心に響くものだと思います。

 

生きるためにちゃんと欲しがれ!

周りに人がいるんだ、手をつなげ!

という、実在の人物以外からのメッセージを受け取ることは、今の社会でも貴重な体験になると思うのですが・・・

 

 

そのようなオリジナルのメッセージを、なぜ、今、否定したんだろう・・・

 

 

結局は個人の問題に収斂させるって、テーマとしては興味深いけれど、

それをやる場は、このコンテンツじゃなくてもいいでしょ?

 

 

主人公を象徴する持ち物、何でしたか?

その物体がいささか強烈な印象を与えるので、忘れがちかもしれませんが、

「明日の」という言葉がついていますよね。

オリジナルが最後に否定した側の思想である「良き終末」ではなかったはずなのですが。