東和薬品さん インタビュー動画4(羽生結弦選手)を視聴しての、非常にとりとめのない感想です。
羽生選手の言葉の中の「人間」とはこのような意味ではないことを、重々承知しているのですが、まず思ったのが、こちらです。
どれほど物凄い選手でも、「生物学的に人間である」という条件は変えられないんだなあ。
(いきなり何を言っとるんだ・・・)
いや、あの、つまり、
羽生選手の演技が地球とは違う物理法則下で行われているように見えても、実際のところは、人間が地球で動いているんだよなあ・・・
人間がやりたいことを全部やるのは、物理的にも生物学的にも無理だし、
叶えたい物事に対して容量を超えるものを「捨てる」しかないのは、羽生選手も普通の人間も同じなんだな・・・
などと、まず思ってしまったのです。
でも、そのような人間らしさ(捨てる)が、本能と対比的な意味での人間らしさ(決意)につながるのですね。
人間だから生物学的にあるいは物理的に仕方がないことが、精神的な人間らしさにつながる、とまとめて良いでしょうか?
ところで、今、私は、「捨てる」ということについて「人間だから〜仕方がない」と、ちょっと否定的な言い回しをしました。
しかし、羽生選手は「ちゃんと捨てた」と言っています。
「叶ってないもの」を「捨てる」ことには、痛みを伴うと思います。
(このご時世なので、特に、「皆と一緒に遊びたかったな」が心にしみました。)
それらの「叶ってないもの」を いとおしむ気持ちが感じられる話し方をしつつ、「ちゃんと捨てたから」と言えるんですね。
すごいなあ・・・と思うと同時に、目標のために取捨選択を迫られる生活に対して、一つの指針をもらったような気がしました。
そのほかの感想をいくつか・・・
♪「4回転半のチャレンジへの決意や思いは?」という問いに対して、まず、「決意」という語の自分なりの定義を話してる!
しかも、「人間が持てるものの割と象徴的なもの」という言葉でガツンと始まるものですから、関心を抱かざるを得ないじゃないですか〜♪
♪本能の中で、動物の場合の例を挙げる時に、「たぶん、生き延びるために食べたりとかそういうのがあったと思うんですけど」と言っていたのが印象的でした。
一般論的に「生き延びるために食べたりとかそういうのがあると思うんですけど」と言ってもいいのに、自分の理解を思い起こして話しているような感じだな〜
多くの人が視聴するでしょうに、個人的な話をしているみたいで面白いな〜♪
♪フィギュアスケート選手って、プログラム使用曲を自分で演奏してみたいと思うことはあるのでしょうか?
いや、使用音源以外は、音の表現の妨げになってしまうのかな?
もしもいつの日か、「ベースとかギターとかドラムとか」が羽生選手の「叶えたいこと」になることがあれば、ブルースやロックの使用曲を演奏してみてほしいです・・・?
(アイスダンスの音源に生音でビートを入れている羽生選手を想像してしまったのは内緒です)