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雌雄二龍の銀龍に導かれ☆ミ |KO KO RO
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日本で発見される古代文字


「中国から漢字が伝えられるまで日本には文字がなかった」と、日本人の大多数はそう信じ込んでいる。
義務教育の小・中学校はいうまでもなく、高等教育の場でも繰り返し、そう教えられてきたからだ。

しかし、平成三年七月、佐賀県大和町の東山田一本杉遺跡から出土した弥生前期末の甕棺から、「古代南インドの象形文字」が発見された。
日本人考古学者が見逃していたものを、たまたま調査に訪れた、インド人考古学者ポンナムバラム・ラグパティ博士が発見したものだ。
意味は不明だが、甕棺の側面に、縦十五センチ、横十九センチの大きさで十字に引かれた線の先端が熊手状の文字が描かれていた。ラグパティ博士は「紀元前三世紀頃まで南インドの土器に描かれていたグラフィティという古代文字と同じだ」と語り、驚きの声をあげた。

しかし、この程度で驚いてはいけないのだ。
紀元前二五〇〇年から紀元前三〇〇年頃に使われていたと思われる古代シュメール文字やバビロニア文字、ギリシャのピロス文字、中国の甲骨文字のルーツと思われる文字が、西日本一帯において、続々と発見されているのだ。(日本ペトログラフ協会調べ)

つまり、インドどころの騒ぎではなく、超古代の日本人が世界各地と交流していた形跡が見られるのである。
ただし、それらの発掘物が、世界各地から古代文化を伝えた部族が集団で日本列島で渡来し、それぞれのルーツを伝える文字を岩に刻み込んだものなのか、逆に日本で発明された古代文字が世界各地に伝えられ、定着し完成するに至った形跡をしめすものなのか、この辺については今のところ定かではない。

いえることは、いずれの文字も、超古代文明の遺産とされる巨石文化遺跡の大岩に刻まれた状態で残っているところを見ると、紀元前二五〇〇年どころか、その起源はずっと古くまでさかのぼる可能性があるということだ。
そして、日本列島が、古代文字の発祥の地だった可能性があるということなのである。


「五色人」というと、中伊豆に本部がある世界真光文明教団や、飛騨高山に本部のある崇教真光の専売特許のように思っている人がいるかもしれない。
あるいは、もう少し勉強しているならば、それは真光の岡田光玉(1901-74)が『竹内文書』の影響を受けた証拠だ、というかもしれない。

ところが、竹内巨麿がまだ四歳の明治十二年、越中立山から遠く離れた豊前小倉で、すでに「五色人」について言及していた神道家がいたのである。
黒住・禊・天理・金光・修成・大成・神習・大社・扶桑・実行などと同じ神道十三波の一つに数えられる神理教の教祖・佐野経彦(1834-1906)である。

すなわち、佐野経彦は「五色人」について、同家の物部伝承をもとに、次のように指摘したのである。

「木火土金水は、果たして知る十神よりはじまる。
五色の人種は五祖人にはじまる。
天神もろもろのみこともちて、諾冊二神に詔りして、国土をつくり固めしむ。
又諸の祖神をうむ。
人の人たる道をもって、累世に相続し伝わる。
繩々として絶ゆるなし。
子孫八十つづき

さして五祖人五色人について、次のように示すのである。

 オーストラリア人 勾々奴智神 
 アメリカ人 火具土神 
 アジア人 埴安姫神 
 アフリカ人 金山彦神 
 ヨーロッパ人 水波女神 

すなわち、この『神理学入門』が執筆された明治十二年六月の時点では当然のことながら、まだ『竹内文書』は公表されていないのである。
だが、佐野経彦という物部氏の末裔を名乗る神道家によって、「五色人」はすでに明らかにされているのだ。
彼が、そのことを、自家の物部伝承から得たのか、あるいは物部氏の<記紀>である『』(十巻)や、『旧事本紀大成経』(七十二巻)を読んで知ったのか、それとも単なる五行思想から発想したのか、それについて想像するしかないが、佐野経彦の著書には超古代史文献的要素が散見されるのである。

それは佐野経彦が生まれ育った豊前の小倉(現在、福岡県北九州市小倉南区)という風土からきたのかもしれない。
というよりも、九州全体が古代文明の発祥の地であったのだ。
とくに、豊の国・肥の国は埋もれた古代伝承の宝庫となっている。
たとえば、「五色人」関係でいえば、熊本県阿蘇郡蘇陽町大野には「五色の神面」と「水の玉」の神器を伝えている幣立神宮がある。
また、佐野経彦ゆかりの小倉の豊前北部に対し、豊前南部の大分県宇佐地方から日本最古の神道>を自認した禊流の川面凡児(1862-1929)が出ている。
彼の神道霊学にも超古代史文献的要素が色濃く漂っているのである。

「古神道の系譜」菅田正昭・著
 

日本の歴史は超古代にまでさかのぼ


王仁三郎の唱えた人種・民族論によれば、いわゆるセム族とは、日本人、ユダヤ人、満州人、蒙古人、コーカサス人などを含んでいる。
とくに、日本人とユダヤ人は、同種の民族であるだけではなく、素盞鳴尊を祖神とするセム族の中核であるとした。

さらに王仁三郎は、セム族をイスラエル人種とも称し、日本人とユダヤ人は、世界経綸を担う重要な民族であると説いている。

泉田瑞顕氏は、『出口王仁三郎の大警告』の中で、王仁三郎のこの説を敷衍してこう述べている。

「今から約四千年前、中東パレスチナの地に集結して、イスラエル王国を建設した十二部族とうのは、セム族である。
このセム族というのは、太古の時代、世界経綸のため富士高天原から各地に降臨した天孫民族である。
中東パレスチナの地にイスラエル王国を建設した十二部族こそ、富士高天原からアジア大陸を西に降った天孫民族の後裔と見るべきである」

もしこの説が正しいとすれば、旧約聖書セム族として記されたイスラエル十二部族は、実はアジア人であったことになる。

これは、人類の歴史を根底から覆すものだ。
そうするとモーゼも、イエスも、みなアジア人であったことになってしまうのである。

欧米社会の拠りどころであったキリスト教やユダヤ教は、アジア人が生み出した教えということになれば、白人主導型の古代世界史観、ふっとんでしまうだろう。
これは、白人---というよりイシヤにとってみれば、断じて受け入れられないことに違いない。

しかし、最近のペトログラフ研究の観点からしても、この説が次第に立証されつつある。

さらに、興味をそそられることがある。

終戦後、マッカーサーが厚木基地に降り立つと、すぐに元海軍の水交社にフリーメーソン東京ロッジを設置したことは既に述べたし、よく知られていることでもあるが、マッカーサーは、これと相前後して、石川県の宝達山に向かった言われている。

いったい、そんなところに何があるのか。

実は、宝達山には、モーゼが晩年に日本にやって来て死去し、この地に葬られたという伝説があり、墓まで存在するのである。
マッカーサーは、上陸直後、ここに参拝に来たというのだ。

モーゼにまつわるこの伝承は、竹内文書に記されているものである。

(中略)

前述したように、竹内文書など、偽書のレッテルを貼られた古史古伝はすべて英訳され、アメリカでは正規の研究対象になっているものもある。

マッカーサーがもし、上陸すると同時に、モーゼの墓に参拝に赴いたことが事実なら、彼は竹内文書のこの記述を、認めていたことになろう。



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