「ただ患部を治す(直す)こと」だけが
当人にとっての
『癒し』となる”わけではなくて”





昨日のお昼間に、この映画を観ながら、
わたしは母に、語り始めたのでした。





一昨日の夜 寝ている間に
かなりの頭痛を、体感していたわたし

昨日の朝 目覚めてからも
その頭痛は続いていて

それでも いつも通りのルーティンをこなし、
朝の瞑想入浴へと向かったのでした。


入浴しながら、志事もしていたんやけど
どうにもこうにも 体を洗う氣力が湧かず

ただただお湯に浸かり汗を流してから
シャワーでお湯洗いをして
リビングへと戻りました。



そこからが やはり
いつものわたし、ではなくて

寒くて 寒くて もこもこフリースを着込み、
その状態のまま、映画も観ていました。



珍しく母が いつも以上に 興味深く
映画の中の 猿たちを 観ていました

いくつかの質問を
わたしに投げかけながら


そんな様子の母を観ていたら、
うち(内在神∞茜∞)が、自然必然と
語り始めたのでした。





たとえ 治せない病氣は無い としても
その患部(症状)をただ治せばよい

というコトではなく

当人にとって『癒し』(=大調和)となる
ヒーリング(お手当て)こそが『治療』となるんよね


当人が ただ元氣で生きていたい と想っていない場合
(健康寿命を望んではいない場合)
仮に
うちが こちらから 治したとしても、それは
当人にとっての『癒し』とはならず

患部が消えたとしても、当人には、
【苦痛】な想い(心)が残る。
(生きたくはない日常生活の在り方が残る)



お母さんの時もそう

昨年の12月から今年の1月へと
生きる氣力を失った時

わたしはお母さんが毎日うったえていた倦怠感を
浄化してあげようと向き愛していた

けれども

お母さんは体の【倦怠感】を味わうことで
自分自身の想い(心)を休め(癒し)
魂を元の宇宙へと、返そうとしていた。




どのような時も 人は、
家族や みんなと共に 生きようとしているからこそ
時に、自ら、病を引き起こす(生み出す)


その”病というエッセンス”を味わうことで
心(想い)が報われ(癒され)

ハートから再び、ただ在る愛が

(入院や通院のプロセスも含めて)

湧き起こるようになるまで満たされたなら


肉体(魂の容れ物、神殿)を 自ら(水から)動かし
元氣に活動するようになる。



だからね、わたしは今、この点(天)を、
勉強させてもらっているの。


遠隔ヒーリングの やり方も 変えながらね


∞茜∞が目指している地球は、
『大調和』の地球であるから。





わたしに顔を向け 深々と頷きながら
集中して話しを聴いてくれていた母
(普段はこういう集中力が続かない)


「 お母さんが『奇跡の生還』を果たせているのは、
やっこがそうして、観てくれているからよ。」


微笑みを返してくれた、穏やかな母がいました。







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『命』があるから感じる『痛み』
『生きよう』としているから感じる『痛み』

私自身は、
『痛み』は『生きていることの証』だと、
ずっと思える人間でありたい。










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