ただし、当時の日高見とは、東北地方の広い範囲のことをさしていた。

ヤマトタケルの東国征伐についてこんな神話がある。

蝦夷を平定した後、日高見国から帰って常陸(茨城県)を経由し
甲斐国(山梨県)に到着し、酒折宮(さかおりのみや)に来た。

その際、ヤマトタケルが食事をしている時、
新治や筑波を過ぎてから何夜過ぎたか?

家臣に尋ねるが、だれも答えられなかった。

そこで、燭(あかり)番人が、ヤマトタケルにこんな歌をよんだ。

「かがなへて 

夜は九夜 日には十日を

日数を数えてみると、夜は九夜、昼は十日です。
尊は燭(あかり)番の賢さを褒め、褒美を与えた。」


続けてヤマトタケルは、こう言った。

「蝦夷の悪しき者たちはことごとく罰せられた。

ただ、信濃国(長野県)と、
越国(こしのくに福井~石川~新潟県一帯)のみが、
いまだに朝廷に従わないでいる。」


※酒折宮は、元々月見山にあり、

三角錐のかたちをした「神奈備山」だった。



大地震や噴火が起こるのは、「蝦夷が騒ぐから」
と、言われていた。

鎮めるために朝廷は、地主神を昇格をさせてきたことがある。

 

 ニニギノミコト



気仙麻大島の共通する神は、ニニギノミコトとホムタワケ(八幡)。

ヒタカミを祀っていることを考えると、
ヤマトタケルと竹内宿禰も、ニニギノミコト。

武内宿禰は北陸及び東方に派遣され、
地形と百姓の様子を視察した。

帰国すると、蝦夷を討つよう
景行天皇(ヤマトタケルの父)に進言した。(日本書紀)

竹内宿禰と神功皇后と一緒に三国征伐をした話は、
新羅討伐のことで、神功皇后が登場する話に、

「瀬戸内海の水軍」が深く関わる。

神功皇后は、大和から九州の筑紫へ水軍を移動中に、
軍港であった那波浦に立ち寄ったとある。

また、皇后は、
大海に出ると「魚たちが集まってきて船を背負って泳ぎ
船は追い風に乗って~」
とあるように、「魚の人」に助けてもらっている。

 



たちまちのうちに新羅国に達したと言われているから、
神功皇后の指示をしてきたのは武内宿禰で、
その資金や航海技術のサポートをしたのは、
魚の人=ハタの海人族だろう。

※秋田物部文書では、武内宿禰ではなくウマシマジとされる。




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