「これまで何度も依頼はあったが、全て断ってきた」 | 好きなことだけで生きられる

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「好きなことをしてそのことを発信しつづけると、そこに人とお金が集まります」by立花岳志
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フリーのディレクターとして、テレビ番組からファッションブランドの動画制作まで、精力的に活動する上出遼平が、「これまで何度も依頼はあったが、全て断ってきた」という仕事論をテーマにした本をついに上梓。そのタイトルは「ありえない仕事術 正しい“正義”の使い方」(徳間書店)。




 

 

——このたび刊行された「ありえない仕事術」について、なぜ仕事術をテーマにした本を書こうと?


上出:仕事術やビジネスをテーマにした本の執筆自体は、これまでに何社からも依頼をいただいていて、僕自身はそんな本を書く気はさらさらなかったので、全て断っていたんです。ただ、依頼が来ては断る、みたいなフェーズも1周したかな、というタイミングでまた依頼が来たので、どんだけ仕事術の本って需要あるんだよ、そんなに売れるのかよ、と思いまして。もともと僕は文章を書いて飯を食っていくことに強い憧れがあり、そういう意味でも、仕事本を書くことは避けて通れないんだなという感じもしたので、それなら自分なりのやり方で書いてみようと思いました。


——文筆業への憧れ、あるいは物語への関心は、いつ頃から芽生えたのでしょう。


上出:本を読むことの喜びは幼少期から感じていました。子どもの頃に買ってもらった、半分絵本みたいな「十五少年漂流記」は擦り切れるほど読みましたし。たとえ家のベッドの中にいても、本があればどこにでも行ける、その“旅”への没入感に完全にほれ込んだんです。もはや、それ以上の喜びはないんじゃないかっていうくらいに。その原体験があるので、一度はテレビ局の社員になりましたけど、今こうして文章を書くことを仕事にできているのは、むしろテレビ番組を作るよりも自然なことだと感じています。


——テレビ局の面接では、どういう志望動機を話したのですか?


上出:テレビはほとんど見てなかったので、それは正直に話しました。その上で、僕が何度も足を運んだ当時の中国のハンセン病隔離施設では、さまざまな誤解や知識の欠如によって、患者さんたちの人生が大きく狂わされていました。感染の要因も明らかになり、治療薬もある、もし正しい知識さえ伝わっていれば、いつまでも隔離されている必要はなかった。そういうことをメディアを通じて伝えたい、といったことを話したと思います。その意味では、当時面接で話したことは、そのまま「ハイパー ハードボイルド グルメリポート」の構想と同じなんですよね。


上出:僕自身は幸運なことに、経済的に困窮していた経験はないのですが、まわりの人たちや取材で出会った人たちを見るに、お金というのが人間にとってどれほど重要か、というのは理解しているつもりです。その意味で、作品なり、仕事の成果を商業的に成立させることが重要だということに異論はありません。


ただ、僕が比較的安定していると言われるテレビ局を辞めて、お金にとらわれずにやりたいことを自由にやっているように見えているのだとしたら、それは、ほかの人たちとものを見るスパンが違うからだと思います。目の前の稼ぎだけを見たら、そりゃあこうなりますよね、という悲惨な現場は何度も目にしてきました。テレビ局はこうあるべきだ、という提案を常にしてきたのも、10年先、20年先を見据えて、今からどうあるべきか、という視点で語ってきたつもりです。


上出:例えば、SNSの登場で“フォロワー”という概念が生まれ、その価値がどんどん高まり、ビジネスにもつながるようになりましたよね。いわゆる炎上商法というのは、悪名は無名に勝るという考え方で、多くの人が飛びついた。炎上商法に限らず、SNS上の知名度を指標にしたり利用したりは、どこの企業でもやっています。でも長い目で見た時に、炎上上等の暴論や中身のない企画が、一体何になりますか? 目先の利益を求めてそういう仕事ばかりしてきた人、あるいは会社と、そこには加担しなかった人や会社と、10年後の経済合理性はどっちにありますか、という話です。


一方で、理念に甘えてビジネスの観点が抜けている場合もよくあります。だからこそ、僕はやるべきことを、きちんと売れるパッケージで世に出したい。多くの人に届いて、商業的にも成功させる。その小さい穴をこじ開けることにこそ、エンターテインメントの醍醐味はあると信じています。とくに海外に目を向けるようになってからは、日本国内のフォロワー数なんて、海を超えないですよ。


上出:それは僕自身も感じることはありますよ。あれとは根本的に違うんだけどな、という。ただ、意図や批評性がないまま“ヤバい”場所に行っても、全てがレクリエーションで終わってしまいますからね。どうしたって、そこで映してきたもの、現場での振る舞い、全てに差が出る。1つ言えるのは、僕は現場で必ず対話をします。取材対象者の主張を一方的にしゃべらせるようなことは絶対にしません。相手が聞かれたくないことも、必要だと思えば遠慮なく聞きます。そのことで、こちらも傷つくし、痛みを伴う。その覚悟を持った上で、自分が作品の主役になることもない。そもそも僕は“ヤバい”ものを撮るプロではありません。人が見たくないものを無理やり見せて、生き方を問う。それが仕事です。


上出:そこは本当に重要です。個人的には、作り手、出演者や取材対象者、受け手、この3者が全員納得できるものでないと、作品としての価値はないとすら思っています。価値がないというか、そこが出発点。制作の過程でハラスメントが起きていたり、出演者が合意していなかったり、受け手が傷ついたり、どれか1つでも欠陥があるようであれば、どんなに完成度の高い作品であっても、評価に値しない。もちろん、何かを刺しにいくジャーナリズムでは話がまったく異なります。極端な考え方かもしれませんが、いち制作者としては、このくらい過激な考え方を持っていないとダメだと思って、日々仕事しています。