人類はこの傑作の前にひれ伏すしかない。映画「王国(あるいはその家について)」 | 好きなことだけで生きられる

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おそらくその魅力は今後徐々に表れ始めるに違いない。


 

「我々はいったい何を見せられているのか?」

そんな戸惑いから映画に順応するまで、すこし時間がかかる。



映画を鑑賞出来たのが今月、12月9日ポレポレ東中野にて。 
鑑賞から2週間が過ぎようというのにその興奮は収まらない。


あっと言う間の2時間半の上映時間。

主要の登場人物は男ひとりと女が2人。

最初に事件を起こしたであろう女が警察の取り調べ室で調書を読み上げられているシーンから始まり

わずか数分で事の顛末の説明が終わる。 

それからラストまではひたすら男ひとりと女が2人の映画のリハーサルシーンが延々と執拗に何度も繰り返される。

言ってしまえばただそれだけの映画だ。

それだけのはずなのにそれしか映されていないはずなのに。

映画の脚本にあたるシナリオも読んだ。

このまま撮影してもしっかりしたと世界観が確立している内容だった。

シナリオでのストーリーは冒頭でサラッと説明して、(本来はじっくりとそこに向き合って準備して見せていくのが多くのアプローチの仕方であるはずなのに)あっさりと観客はいきなり殺風景な一室での俳優たちのぶっきらぼうなリハーサルシーンに立ち会わされる。

私が作りたい映画はあなたが想像しているようないままで見てきたようないわゆる栄耀栄華を極めた映画とは似ても似つかない唯一無二のここでしかこの作品でしかお目にかかれない代物だといわんばかりに。

スクラップ&ビルド。

草野なつかワールドの始まりだ。

観るものをの心を鷲掴み離そうとしない執拗なこの魅力はなんなのか?

今まで味わったことのない感情をいだかされたのはいつからだったのか?

きっとこんな映画は何年も映画に関わってきてようやく最後に撮ることができる映画だ。

失礼を承知で言わせてもらうがそんな30代の長編2作目の女性監督が撮れるものではない。 






ゴダールもポン・ジュノにもこんな作品は撮れない。

100 年の映画史で今まで誰も踏み込んだことがない地に初めて辿り着いた作品。

ストーリーを語るのではなくただ3人の役者が役を演じることがこんなにもドラマチックでスリリングで魅力的であることを教えてくれた作品。

100メートルを人類で初めて7秒代で走りきった作品。

映画制作に必要なのが予算でも大スターでもストーリーでもなく想像力と実行力であることを教えてくれる。

いやもうどれだけ言葉を尽くしてもこの映画の奇跡を語り尽くすことは出来ない。

鑑賞後様々なレビューを読ませてもらったがまだまだこの映画の凄さに気づいている人が少ないのが残念でならない。

2023年はこの映画だけ観ればいい。

何なら人生で一本だけ映画が観れるとしたらこの映画を迷うことなく勧める。

それくらい凄い魅力がこの映画に込められている。

嘘だと思うなら自分で確かめて欲しい。

ただ、残念なところが一つある。

それはエンドロールで音楽を使ったところ。

あそこはぜひとも劇中のセリフを流して欲しかった。

そのセリフの余韻に浸りながら終わりを迎えたほうがこの映画の伝えたいメッセージがより観客に伝わったかと。

ただそれを補って余りある本編の魅力は不変です。

人と人が親密なかけがえのない密度の濃い時間を過ごすことのできた体験。

映画のテーマでもあるその体験を。

振り返って後からしか気づくかせてくれないその王国体験をこの映画がもたらしてくれたのだといまさらながら気づかせてくれるこの憎たらしさよ。

観客を観客の鑑賞する力を信頼仕切っていなければここまで省略と執拗な繰り返しの物語を語り切ることは出来ない。

ああ、こんな文学でもドラマでも出来ないやっかいな映画をいつからどうやって生み出そうとしていたのか。

今後映画史は「王国」以前と以後とに分かれて語られるに違いない(B.C、 A.Cみたいに)。

それくらい映画史に与えるインパクトが半端じゃない。

濱口竜介監督が嫉妬する気持ちもわかる。

草野なつか。

こんな作品を生み出すあなたは。

恐ろしい怪物だ。

おそらくその魅力は今後徐々に表れ始めるに違いない。

伝説はまだ始まったばかりだ。