パン屋の前のあの子
朝になると、パンの匂いが町じゅうに広がる。
焼きたてのクロワッサンと、バターの甘い香り。
ぼくは毎日、その香りに誘われてパン屋の前の石畳に座る。
店の人はもう慣れているのか、ぼくのことを追い払ったりはしない。
たまに「今日も来たのね」と言いながら、紙袋の中からパンの端っこを投げてくれる。
それが少し冷めた頃、あの子が現れる。
制服のスカートを風に揺らしながら、小さなトートバッグを抱えて。
いつも同じ時間、同じパンを買う。
クリームパン。
それを手にすると、ちょっとだけ笑う。
でも、その笑顔のあとで、目を伏せる。
泣いたあとのように、まつげの影が長い。
ぼくはその足もとに身体をすり寄せる。
だけどあの子は気づかない。
イヤホンの向こうで、何かを聴いている。
パンを一口かじって歩き出すと、甘い匂いといっしょに、ほんの少しだけ悲しみの気配が残る。
ある朝、いつもの時間になってもあの子は来なかった。
パン屋の前に座っていたぼくの耳に、店の奥から話し声が聞こえた。
「ほら、あの子。最近は男の子と来るのよ」
「へえ、そうなの。よかったじゃない」
次の日、ほんとうにそうだった。
隣に男の子がいた。
彼女がパンを受け取るとき、男の子が笑って何かを言う。
その笑顔に釣られるように、あの子も少し笑った。
昨日までの沈んだ目が、朝の光を映している。
ぼくは立ち上がって、大きくあくびをした。
そして二人が並んで歩く背中を見送りながら、パン屋の裏の陽だまりに戻る。
パンの匂いは変わらない。
だけど、今日の風は、少しだけ甘かった。







