不意打ちのライバル?



 オムライスの夜から数日。
 俺と白雪さんの「お隣さんディナー」はすっかり定着していた。しかし、あの夜の「半分は本当、かも」という言葉が頭から離れず、俺は大学でも彼女を意識せずにはいられなかった。
 そんなある日の昼下がり、講義の合間に中庭を通りかかった俺は、思わず足を止めた。
「白雪さん、これ、もし良かったら受け取ってくれないか?」
 大樹の木陰で、白雪さんが男子学生から呼び止められていた。
 相手は経済学部の藤堂。容姿端麗、スポーツ万能で有名な、いわゆる学内のカースト最上位にいる男だ。彼は高級そうなブランドの紙袋を差し出していた。中身はきっと、人気の限定スイーツか何かだろう。
(……やっぱり、藤堂みたいな奴が白雪さんにはお似合いだよな)
 胸の奥がチクリと痛む。俺のような凡人が、彼女のプライベートな姿を独占していること自体が、奇跡のバグのようなものなのだ。
 遠目から見守る中、白雪さんはいつも通りの美しい、けれど完璧に冷ややかな笑みを浮かべた。
「お気持ちだけいただきます。見ず知らずの方から物をいただくわけにはまいりませんの。それでは」
 一寸の隙もない、流れるようなお断り。藤堂が言葉を失っている間に、彼女はヒールを鳴らして颯爽と歩き去っていった。
 相変わらずの「氷の令嬢」ぶりに周囲の学生たちが感嘆の息を漏らす中、俺は彼女の後ろ姿を見送りながら、なぜかホッとしている自分に気づいた。
 ――しかし、事件はその夜に起きた。
「佐藤くん……聞いて、大ピンチなの……」
 インターホンが鳴り、ドアを開けるなり、白雪さんがベソをかきながら転がり込んできた。いつもの灰色ジャージ姿だが、その手には、昼間に藤堂が持っていたあのブランドの紙袋が握られている。
「えっ、白雪さん、それ……藤堂からのプレゼント、断ったんじゃ?」
「断ったの! 断ったんだけど……! 講義が終わって自分のバッグを開けたら、いつの間にかこれが中に入ってて……!」
 どうやら、彼女が席を外した隙にでも入れられたらしい。
「私、こういう高級なスイーツとか、お返しに何を贈ればいいか分からなくて……粗相があったら実家の名前に傷がつくし、どうしよう、どうしよう……!」
 頭のアホ毛をこれでもかと激しく振り乱しながら、白雪さんは完全にパニックに陥っている。大学での冷徹な態度はどこへやら、贈り物のマナー一つで大パニックになるあたりが、いかにも箱入り娘の彼女らしいポンコツさだった。
「落ち着いて、白雪さん。ただのクッキーみたいだし、明日『困ります』って普通に返せば大丈夫だよ……それより、そんなに藤堂からのプレゼント、嫌だった?」
 俺が少し意地悪に尋ねると、彼女はぶんぶんと首を横に振った。
「嫌っていうか……私、佐藤くんが作ってくれるご飯の方が、何百倍も嬉しいもん。こんなオシャレなクッキーより、佐藤くんの唐揚げの方がずっと食べたい……」
 上目遣いで、ぽつりと溢された本音。
 昼間のモヤモヤなんて一瞬で吹き飛ぶような破壊力に、今度は俺の心臓がうるさく音を立て始める番だった。
「……分かった。じゃあ明日の夜は唐揚げな。だからそんなに泣きそうな顔すんなよ」
「本当!? やったぁ!」
 さっきまでのパニックが嘘のように、現金な笑顔を咲かせる白雪さん。
 藤堂、悪いな。お前の高級クッキーは、俺の特製唐揚げに完全敗北したらしい。


    
オムライスと甘い失敗


「できた……! 見て佐藤くん、私の最高傑作!」
 キッチンから漂うバターの香りと共に、白雪さんが嬉しそうに差し出してきたのは、黄色い卵に包まれたオムライスだった。
 その上には、真っ赤なケチャップで大きく文字が書かれている。
『さとうくん だいちゅき』
「……白雪さん、これ……」
「あっ!?」
 俺が固まると、白雪さんも自分の作ったオムライスを二度見して、顔を紙袋のように真っ白にした。
「ち、違うの! 『だいすき』じゃなくて『オムライス大好き』って書こうとしたの! でもスペースが足りなくなって、あと手元が狂って『す』が『ち』に……! っていうか主語が佐藤くんになってる!? ひゃあああ!」
 パニックに陥った彼女は、スプーンで慌ててケチャップをかき混ぜ、文字をめちゃくちゃに消し去ってしまった。結局、ただの真っ赤なドロドロになったオムライスを前に、彼女は耳まで真っ赤にして俯いている。
「ご、ごめんなさい……変な意味じゃないの。ただ、毎日ご飯を作ってくれる佐藤くんへの、その、友愛的な感謝の気持ちが暴走したというか……」
 アホ毛が完全にへにゃりと折れ曲がっている。
 そんなに必死に言い訳されると、逆に少し寂しい気もするが、何より真っ赤になって震えている姿が可愛すぎて、俺の心臓はさっきからうるさいくらいに脈打っていた。
「わかってるよ。ほら、冷めないうちに食べよう。文字は消えちゃったけど、味は美味しいはずだから」
「……うん。いただきます……」
 一口食べると、卵はふわふわで、チキンライスもしっかり味がついていた。我ながら上出来だ。
「……美味しい」
 白雪さんが小さく呟く。ケチャップのハプニングのせいで、いつもよりお互いに口数が少ない。スプーンが皿に当たる小さな音だけが、狭いワンルームに響く。
「あのね、佐藤くん」
 彼女がもぐもぐと口を動かしながら、気まずそうに俺を見た。
「私ね、大学ではずっと『完璧』でいなきゃいけないって思ってたの。親にもそう育てられたし、期待を裏切るのが怖くて。でも……ここに来ると、バカなことばっかりしちゃう」
「ジャージで締め出されたり、バナナを肉じゃがに入れようとしたりね」
「うう、それは忘れて……でもね、そんなポンコツな私を見ても、佐藤くんは呆れないで、普通に笑って、美味しいご飯を作ってくれる」
 白雪さんはスプーンを止め、じっと俺の目を見つめた。その瞳は、大学での冷ややかなものとは正反対の、吸い込まれそうなほど温かい熱を帯びている。
「だから……さっきのケチャップ、半分は間違いだけど、半分は……本当、かも」
「え……?」
「あ! 今の忘れて! オムライスが美味しすぎて頭がのぼせてるだけだから!」
 彼女は真っ赤な顔のまま、残りのオムライスを猛烈な勢いで口に放り込み始めた。
 おいおい、それじゃあどっちの半分が本当なのか、気になって夜も眠れなくなるだろ。
 お互いに顔を合わせられないまま、静かに、けれど確実に、俺たちの距離は近づいていた。



    

キャンパスの氷



 翌日の大学。
 昼休みの食堂は、いつも以上の熱気に包まれていた。
「おい、見ろよ。今日も白雪様は美しいな……」
「話しかけるなオーラがすごすぎて、近づくだけで凍りつきそうだぜ」
 周囲の男子学生たちが遠巻きにため息をつく視線の先、テラス席にぽつんと座っているのが白雪さんだった。
 背筋を美しく伸ばし、小ぶりなサンドイッチを一口ずつ上品に口へ運んでいる。その姿はまさに、誰も寄せ付けない「氷の令嬢」そのもの。
(まさか、あの人が昨日の夜、俺の部屋で『肉じゃが美味い!』ってご飯を3杯もおかわりしたなんて、誰も信じないよな……)
 俺は少し離れた席から、苦笑いしながら彼女を見つめていた。
 昨夜の「明日も一緒にご飯、食べてもいい?」という言葉が頭をよぎり、胸が少し落ち着かない。
 その時、白雪さんがふと顔を上げ、こちらを向いた。
 一瞬、目が合う。
 彼女の端正な眉がピクリと跳ね、いつもの冷徹な瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
 そして、周囲の人間には絶対に気づかれないような、ほんの数ミリだけの小さな隙を見せて――俺にだけ、こっそりと小刻みに手を振ったのだ。頭のアホ毛まで嬉しそうに揺れているように見えた。
 ドクン、と心臓が跳ねる。
 慌てて視線を逸らした俺の耳に、周りの男子たちの声が降ってきた。
「うわ! 今、白雪様がこっち見て眉をひそめたぞ!」
「あのごみを見るような冷たい目……ゾクゾクするな……!」
(いや、違う。あれはただ『今日のメニューは何?』って目で訴えかけてるだけだ……!)
 誤解されまくっている彼女に心の中で突っ込みを入れながら、俺は午後の講義へと向かった。
 ――そして夜。
 アパートのインターホンが鳴り、ドアを開けると、そこにはすでに「完全オフモード」に切り替わったジャージ姿の白雪さんが立っていた。
「佐藤くん、お疲れ様! 今日も来ちゃった!」
 手にはやっぱり、食材が詰まったコンビニの袋。
 部屋に入るなり、彼女は「ふぅ」と大きなため息をついて、床にごろりと寝転がった。
「あー、やっぱりこの部屋は落ち着く。大学だと、ずーっと緊張して背中がバキバキになっちゃうから……」
「白雪さん、女の子が人の部屋でいきなり寝転がらないの。ほら、今日の夜ご飯、作るから起きなよ」
「はーい……あ、今日のメニューは何? お昼休みに佐藤くんを見かけたら、急にお腹が空いちゃって」
 やっぱり、あのアイコンタクトはご飯のことだったらしい。
 けれど、大学での完璧な仮面を脱ぎ捨てて、俺の前でだけこうして完全にリラックスしている彼女を見ていると、なんだか特別な鍵を預かっているような、妙な優越感がくすぐられるのだった。
「今日はオムライスだよ。白雪さんは、ケチャップで文字を書く係ね」
「本当!? それは得意! 任せて!」
 そう言って起き上がった彼女の笑顔は、昼間に見たどんな完璧な微笑みよりも、ずっと眩しかった。



    

お隣さんのおねだり


「また来ちゃった……迷惑、だった、かな?」

 翌日の夜、俺の部屋のインターホンを鳴らしたのは、やはりあの「高嶺の花」だった。
 大学のキャンパスでは、いつも通り背筋をピンと伸ばし、取り巻きの男子たちを冷ややかな笑顔で一蹴していた白雪さん。だが、いま目の前にいる彼女は、昨日と同じヨレヨレの灰色ジャージ姿。両手には、なぜかパンパンに膨らんだコンビニのレジ袋を抱えている。
「いや、迷惑ってわけじゃないけど……鍵、開いたんだろ?」
「うん。午前中に鍵屋さんに開けてもらったの。でも……」
 白雪さんはもじもじと視線を彷徨わせた後、意を決したようにレジ袋を差し出してきた。
「お礼に、晩ご飯を作ろうと思って! 私、こう見えてもお料理は……その、得意料理とかは特にないんだけど、レシピ通りにやればできるタイプだから!」
 そこまで自信満々に言われると、逆に不安しかない。
 とはいえ、玄関先で立ち話をするわけにもいかず、俺は彼女を部屋に招き入れた。
 そして三分後。俺はキッチンの前で頭を抱えていた。
「白雪さん、どうして肉じゃがを作るのに、ひき肉と、まるごとのジャガイモと、なぜかバナナが入ってるんだ?」
「えっ!? だって、レシピのアプリに『お肉と、お好みの野菜や果物を隠し味に』って書いてあったから……あと、ジャガイモは切ると栄養が逃げるって、おばあちゃんが……」
「いや、せめて皮は剥こうか。あとバナナは絶対に入れないでくれ」
 どうやら彼女は、「レシピ通りにやる」の基準が根本的にズレているらしい。
 包丁を持たせれば危なっかしくて見ていられないし、ピーラーを持たせればジャガイモを丸ごと床にすっ飛ばす。大学でのあの完璧な手際の良さは、一体どこで発揮されているのだろうか。
「……あう。ごめんなさい、やっぱり私、お料理向いてないのかも……」
 完全に意気消沈し、床に体育座りをしてアホ毛をしょんぼりと垂らす白雪さん。
 昨日とまったく同じ構図に、俺は思わず吹き出してしまった。
「いいよ、俺が作るから。白雪さんはそこで座ってて」
「う、うん……ありがとう、佐藤くん……」
 結局、俺が手際よく作った(と言っても、彼女が買ってきた具材をまともに切り分けただけの)肉じゃがを、二人は並んで突つくことになった。
「んむ……! 美味しい! 佐藤くんの肉じゃが、お母さんのより美味しい!」
「それはお母さんに失礼だろ……でも、口に合ってよかったよ」
 幸せそうに頬張る彼女を見ていると、不思議と悪い気はしなかった。
 大学でのツンとした雰囲気とは違い、美味しいものを食べた時に、目を細めて本当に嬉しそうに笑う。その無防備な笑顔は、キャンパスの誰も知らない、俺だけの特等席だった。
「ねえ、佐藤くん」
 食後、お茶を飲みながら白雪さんが上目遣いで俺を見た。
「明日も……その、材料は私が買ってくるから、一緒にご飯、食べてもいい……?」
 それは、完璧女子からの、あまりにも可愛すぎるおねだりだった。


    

秘密の鍵は隣の部屋に



 大学のキャンパスで、彼女――白雪美月の後ろ姿を見かけるたび、周囲の学生たちは畏敬の念を込めてそう囁き合う。
 サラサラと流れる艶やかな黒髪に、モデル顔負けのスタイル。何より、誰の誘いも完璧な笑顔で、けれど一切の隙を与えずに断る冷徹なまでの美しさは、まさに近づきがたい「高嶺の花」そのものだった。
 同じ大学に通う平凡な学生である俺、佐藤(さとう)悠真にとって、彼女は別世界の住人……のはずだった。
 あの日の夜、自分のアパートの廊下で、彼女が文字通り「崩れ落ちて」いるのを見るまでは。
「……うう、閉め出された……スマホも、財布も、部屋の中……」
 時刻は夜の十時。
 バイト帰りの俺がボロアパートの階段を上ると、俺の部屋のすぐ隣――202号室のドアの前で、体育座りをして頭を抱えている女子がいた。
 着古したヨレヨレの灰色ジャージ。頭のてっぺんには、寝癖のようなアホ毛が一本ピョコんと跳ねている。
 最初は不審者かと思ったが、街灯に照らされたその横顔を見て、俺は息を呑んだ。
「……え? 白雪、さん……?」
「ひゃいっ!?」
 情けない声を上げて跳び起きた彼女は、俺の顔を見るなり、凍りついたように目を見開いた。大学で見せる完璧な笑顔はどこへやら、完全にパニックを起こしている。
「あ、あの、佐藤くん……? なんでここに……」
「いや、ここ俺の部屋(203号室)だから。それより白雪さん、どうしたのその格好、っていうか隣に住んでたの!?」
「それは……その……ゴミ出しに行こうとしたら、ドアが閉まっちゃって。オートロックじゃないのに、なぜか鍵がかかってて……」
 どうやら、鍵を持たずに外に出て、勢いよくドアを閉めた拍子に、内側のロックが偶然かかってしまったらしい。
 大学での完璧な彼女からは想像もつかない、あまりのポンコツぶりに俺が呆然としていると、
 ――ぐうぅぅぅぅぅぅ。
 静まり返った夜の廊下に、盛大で、かつ非常に長いお腹の虫の音が響き渡った。
 白雪さんの顔が、一瞬で真っ赤に染まる。湯気が出そうなほどだ。
「ち、違うの! これは私の胃袋が勝手に暴走しただけで、私は全然お腹なんて――」
 ――きゅ~ぅ。
 追撃の音が鳴り響く。彼女はついに、恥ずかしさのあまりその場にしゃがみ込んでしまった。
 夜風は冷たく、ジャージ一枚の彼女の肩は小さく震えている。見捨てるわけにもいかない。
「……とりあえず、鍵屋が来るまでうちに入る? ちょうど夕飯の残りの生姜焼きがあるから、温め直すよ」
 それが、すべての始まりだった。
 俺の部屋に入るなり、白雪さんは「美味しい、美味しい」と涙目になりながら、もの凄い勢いで生姜焼きと白米を平らげた。大学での上品な食事風景は幻だったのかと思うほどのガツガツした食べっぷりだ。
 お腹が満たされ、人心地ついた彼女は、急に真面目な顔をして俺に向き直った。
 その綺麗な瞳には、なぜか薄っすらと涙が浮かんでいる。
「佐藤くん。お願い、今日のことは、大学のみんなには絶対に秘密にして……!」
「あ、ああ。言いふらしたりしないよ」
「本当!? もし『氷の令嬢』の正体が、家ではジャージで、片付けが苦手で、鍵を忘れて締め出されるポンコツだって知られたら……私、恥ずかしくて大学中退しちゃう……!」
 必死に両手を合わせて拝んでくる彼女の頭上で、アホ毛がペコペコと揺れている。
 どうやら俺は、とんでもない「高嶺の花の秘密」を握ってしまったらしい。


夜明けのカンパーニュ


 今夜は、長い夜の終わりが近づき、東の空がほんのりと紫がかった白に染まり始めています。
 ルナさんは、この店を開店した時から継ぎ足してきた秘伝の天然酵母を使い、大きな「夜明けのカンパーニュ(田舎パン)」を焼きました。
 ずっしりと重く、表面には十字のクープ(切り込み)が深く刻まれた、生命力に溢れるパンです。

 お客さまとしてやってきたのは、特定の誰かではなく、これまで店を訪れた動物たちの気配を纏った「森の風」のようでした。
「ルナさん、あなたはずっと誰かの心を温めてきたけれど、あなた自身の心は、ちゃんと満たされているのかしら?」
 風が優しく囁くと、ルナさんはふと、自分の手を見つめました。
 粉で白くなり、オーブンの熱で少し赤くなった、魔法使いではない、ただの一人のパン職人の手。

「ええ。私は、パンを焼くことで、私自身が救われてきたの。誰かの悲しみがパンと共に消化され、笑顔に変わっていくのを見るたび、私の心の中にも、新しいパンが焼き上がるような温かさが灯っていたわ」
 ルナさんは、大きなカンパーニュをゆっくりと切り分けました。
 その断面には、不規則な気泡が美しく並び、まるでこれまでの物語が刻まれているようです。
「パンは食べればなくなってしまうけれど、その温もりや『大丈夫』という記憶は、食べた人の中でずっと生き続ける。私は、その『目に見えない種』をみんなの心に植えたかっただけなのよ」
 ルナさんが最後の一片を口にすると、これまで出会ったお客さまの笑顔が、走馬灯のように脳裏を駆け巡りました。

 孤独だった夜も、涙した夜も、すべてはこの香ばしい一切れのためにあったのだと、ルナさんの心は深い感謝で満たされました。
 やがて、森の向こうから太陽が昇り、パン屋の窓を黄金色に照らしました。
 ルナさんは、看板を下ろす代わりに、店の扉をそっと開け放ちました。
「さあ、夜明けよ。今度は、パンを食べたみんなが、誰かの心を照らす小さな光になる番ね」

 レシピ帖の最後のページ。そこには、文字ではなく、昇る太陽のような温かなオレンジ色の円がひとつ、描かれていました。
『夜は必ず明けます。でも、もしまた暗闇に迷うことがあったら、思い出して。あなたの心の中には、もう、あの夜に食べた温かいパンの魔法が、ずっと息づいているということを』
月影のライ麦パン

 今夜の月は、深い森の奥まで見通せるほどに澄み渡っています。
 ルナさんは、ずっしりと重く、噛めば噛むほどに深い味わいが染み出す「月影のライ麦パン」を焼きました。
 真っ白でふわふわなパンのような華やかさはありませんが、厳しい冬を越えるための強さと、大地のような安心感を持つパンです。

 そこへ、一匹の若い馬、ポニーくんがやってきました。
 彼は草原のレースに出場していますが、最近は仲間たちの華々しい記録を聞くたびに、自分の足の遅さに肩を落としていました。
「こんばんは、ルナさん……僕の走りは地味だし、ちっとも目立たないんだ。友達はみんな風のように速くて、観客から大きな歓声を浴びているのに。僕はただ、一歩ずつ地面を踏みしめることしかできない。自分には才能がないのかな」
 ポニーくんの蹄(ひづめ)は、焦りからか少し欠けてしまっていました。

 ルナさんは、薄くスライスした「ライ麦パン」に、少しの蜂蜜を添えて差し出しました。
「ポニーくん。このパンを食べてみて。これはね、すぐに口の中で溶けてなくなるようなパンじゃないわ。何度も何度も、時間をかけて噛みしめることで、ようやく本当の甘みが顔を出すの」
 ポニーくんがゆっくりとパンを噛みしめると、最初は少し酸っぱく感じましたが、次第にナッツのような香ばしさと、大地の力強いエネルギーが体に満ちていくのを感じました。

「……なんだか、お腹の底から力が湧いてくるみたいだ。派手な味じゃないけれど、すごく頼もしい味がする」
「そう。あなたの走りも、このパンと同じよ。一瞬の速さだけが価値じゃない。一歩一歩、誰よりも深く地面を捉え、着実に進む力は、長い道のりにおいて何よりも強い武器になるの。誰かの華やかさと比べるために、あなたの尊い『歩み』を止めないで」
 ポニーくんは、自分の太く短い脚を見つめ、そこに宿る確かな筋肉の感触を確かめました。
「ありがとう、ルナさん。僕は僕の歩幅で、この大地をしっかり踏みしめて走るよ。それが僕にしかできないレースなんだ」
 ポニーくんは、静かな、でも力強い足音を響かせながら、夜の草原へと帰っていきました。

 ルナさんは、レシピ帖に深く、太い線を引きました。
『誰かの光に目がくらみそうな時は、自分の足元を見てください。派手さはなくても、あなたが積み重ねてきた一歩には、他の誰にも真似できない「滋養」が宿っているのです』


星屑のクロワッサン


 今夜の夜空は、風が強くて星たちが瞬き、まるで空全体が震えているようです。
 ルナさんは、バターと生地を幾重にも、幾重にも重ねては冷やし、丁寧に折り畳んだ「星屑のクロワッサン」を焼きました。
 口に入れた瞬間にハラハラと崩れるその繊細な層は、一瞬の輝きを閉じ込めた芸術品のようです。

 そこへ、一匹の若いキツネ、レンくんがやってきました。
 彼は旅人を目指していますが、地図を広げたまま、不安そうに指を動かしています。
「こんばんは、ルナさん……旅に出たいけれど、十年後の自分がどこにいるのか、ちゃんと食べていけるのか、不安でたまらないんだ。未来のすべてが保証されないと、怖くて最初の一歩が踏み出せないよ」
 レンくんの瞳には、まだ見ぬ先の暗闇への恐怖が映り込んでいました。

 ルナさんは、黄金色に輝く、焼きたての「クロワッサン」を差し出しました。
「レンくん。このクロワッサンを食べてみて。これはね、何百という薄い層が重なってできているけれど、あなたが今味わっているのは、その中の一層、一瞬のサクッとした食感でしょう?」
 レンくんがクロワッサンを頬張ると、軽やかな音と共にバターの香りが鼻を抜け、一瞬で溶けていきました。
「……本当だ。この一瞬の重なりが、こんなに美味しいなんて。先のことを考えるのを忘れるくらい、今、この一口に夢中になっちゃった」
「そうよ。人生も、このクロワッサンの層と同じ。10年後の大きな塊を見ようとするから怖くなるの。大切なのは、今日という『この一層』をどう味わうか、だけ。その小さな『今』の積み重ねが、気づけばあなたを遠い場所へと運んでくれているはずよ」

 レンくんは、口の端についたパン屑を拭うと、広げていた大きな地図をゆっくりと畳みました。
「ありがとう、ルナさん。十年後の心配をするより、まずは明日の朝、隣の町まで歩いてみることにするよ。その『一層』を楽しんでくるね」
 レンくんは、軽やかな足取りで、星降る夜の道へと踏み出していきました。

 ルナさんは、レシピ帖に細い線を何本も重ねて描きました。
『未来とは、遠くにある巨大な壁ではなく、今日という薄い層の積み重ね。今この瞬間の「サクッ」とした喜びを大切にすれば、人生はいつの間にか、豊かで香ばしいものに仕上がっているのです』


木漏れ日のイングリッシュマフィン



 今夜の月は、雲の隙間から時折顔を出し、まるで深い森に差し込む木漏れ日のような光を届けています。
 ルナさんは、表面にコーングリッツをまぶし、フライパンでじっくりと焼き上げた「木漏れ日のイングリッシュマフィン」を作りました。
 フォークで外側にぐるりと切り込みを入れ、手で二つに割ることで生まれる独特の凹凸が、バターを最高に美味しく受け止める一品です。

 そこへ、一匹の美しいキジ、キアラさんがやってきました。
 彼女は素晴らしい声の持ち主ですが、今夜は羽を震わせ、落ち着かない様子です。
「こんばんは、ルナさん……私、歌を歌うのが大好きなの。でも、最近はSNSや村の広場で、誰が一番拍手をもらえるかばかり気になってしまう。拍手が少ないと、自分の歌には価値がないんじゃないかって、喉がカラカラに乾いてしまうのよ」
 称賛という名の「外からの水」を求めすぎて、キアラさんの心の泉は干上がっていました。

 ルナさんは、フォークで丁寧に割った、湯気の立つ「イングリッシュマフィン」を差し出しました。
「キアラさん。このマフィンを見て。ナイフで綺麗に切るのではなく、あえて手で割ることで、この不揃いな『内側』が露わになるわ。この凹凸があるからこそ、バターが深く染み込んで、本当の美味しさが完成するのよ」
 キアラさんが、バターがたっぷり染みたマフィンを口に運ぶと、香ばしい生地の風味と、じゅわっと溶け出すバターの多幸感が一気に広がりました。

「……外側は地味なのに、中にはこんなに豊かな世界が隠れていたのね。誰かに見せるための形じゃなくて、この『中身』が私を幸せにしてくれる」
「そう。歌も同じよ。誰かの拍手は、あくまで表面を飾るコーングリッツのようなもの。大切なのは、歌っている瞬間にあなたの内側がどれだけ熱く、豊かに震えているか。自分自身が自分の歌に満足できたなら、それが一番の『拍手』なのよ」
 キアラさんは、目を閉じて、自分だけに聴かせるように小さくハミングしました。その歌声は、誰の耳にも届かなくても、彼女自身の心を潤す最高の一節となりました。

 ルナさんは、レシピ帖に金色のペンで一筋の線を描きました。
『外からの光に照らされるのを待つのではなく、自分の内側にある熱で、自分自身を焼き上げましょう。あなたがあなたを認めた時、心の乾きは静かに癒えていくのです』


流れ雲のシフォンケーキ



 今夜の空には、薄い雲が風に流され、形を変えながら月を横切っています。
 ルナさんは、極限まで泡立てた卵白の力だけで膨らませた、驚くほどふわふわで軽い「流れ雲のシフォンケーキ」を焼きました。
 中には何も入れず、空気を含ませることで生まれる「儚さ」を味わうためのケーキです。

 そこへ、一匹の老いたロバ、ロバートさんがやってきました。
 彼は代々続く重い荷車を引く仕事をしてきましたが、最近は足腰が痛み、心も疲れ切っていました。
「こんばんは、ルナさん……私はこの荷車を引くことだけで、自分の価値を示してきた。でも、もう体が悲鳴を上げているんだ。この荷車を手放してしまったら、私はただの、何者でもないロバになってしまう気がして怖いんだよ」
 ロバートさんの背中は、長年の重荷によって、深い轍(わだち)のような跡がついていました。

 ルナさんは、お皿の上でフルフルと揺れる「シフォンケーキ」を差し出しました。
「ロバートさん。このケーキを食べてみて。これはね、重い材料を足していくのではなく、余計なものを削ぎ落として、空気のように『軽く』することを目指して作ったのよ」
 ロバートさんがケーキを一口食べると、それは噛む必要もないほど、一瞬で口の中で消えてしまいました。あとに残ったのは、卵と砂糖の優しい香りと、心が洗われるような爽快感でした。

「……なんて軽いんだろう。形があるのに、ないみたいだ。でも、確かに私は今、幸せを感じているよ」
「そう。手放すことは、失うことではないわ。重い荷物を下ろして初めて、あなたは風の匂いや、道の傍らに咲く花の美しさに気づくことができる。何者でもなくなった時、あなたは『何にでもなれる自分』に戻れるのよ」
 ロバートさんは、店を出ると、ゆっくりと荷車のベルトを外しました。
 背中がふわりと軽くなった彼は、今まで見たこともないような軽やかな足取りで、月明かりの草原へと歩き出しました。

 ルナさんは、レシピ帖の余白に、一筆書きの雲を描きました。
『握りしめている手を解くのは、勇気がいること。でも、空っぽになったその手は、次に訪れる新しい幸運を掴むために、一番必要な準備なのです』